はし が き 
私 は 、 その 男 の 写真 を 三 葉 、 見 た こと が ある 。 
一葉 は 、 その 男 の 、 幼年 時代 、 と でも 言う べき で あろ う か 、 十 歳 前後 か と 推定 さ れる 頃 の 写真 で あっ て 、 その 子供 が 大勢 の 女 の ひと に 取り かこま れ 、 （ それ は 、 その 子供 の 姉たち 、 妹 たち 、 それから 、 従姉妹 たち か と 想像 さ れる ） 庭園 の 池 の ほとり に 、 荒い 縞 の 袴 を はい て 立ち 、 首 を 三 十 度 ほど 左 に 傾け 、 醜く 笑っ て いる 写真 で ある 。 醜く ？ 　 けれども 、 鈍い 人 たち （ つまり 、 美醜 など に 関心 を 持た ぬ 人 たち ） は 、 面白く も 何とも 無い よう な 顔 を し て 、 
「 可愛い 坊ちゃん です ね 」 
と いい加減 なお 世辞 を 言っ て も 、 まんざら 空 お 世辞 に 聞え ない くらい の 、 謂わ ば 通俗 の 「 可愛らし さ 」 みたい な 影 も その 子供 の 笑顔 に 無い わけ で は ない の だ が 、 しかし 、 いささか で も 、 美醜 に 就い て の 訓練 を 経 て 来 た ひと なら 、 ひと め 見 て すぐ 、 
「 なんて 、 いや な 子供 だ 」 
と 頗る 不快 そう に 呟き 、 毛虫 でも 払いのける 時 の よう な 手つき で 、 その 写真 を ほうり 投げる かも 知れ ない 。 
まったく 、 その 子供 の 笑顔 は 、 よく 見れ ば 見る ほど 、 何とも 知れ ず 、 イヤ な 薄気味悪い もの が 感ぜ られ て 来る 。 どだい 、 それ は 、 笑顔 で ない 。 この 子 は 、 少し も 笑っ て は い ない の だ 。 その 証拠 に は 、 この 子 は 、 両方 の こぶし を 固く 握っ て 立っ て いる 。 人間 は 、 こぶし を 固く 握り ながら 笑える もの で は 無い の で ある 。 猿 だ 。 猿 の 笑顔 だ 。 ただ 、 顔 に 醜い 皺 を 寄せ て いる だけ な の で ある 。 「 皺くちゃ 坊ちゃん 」 と でも 言い たく なる くらい の 、 まことに 奇妙 な 、 そうして 、 どこ か けがらわしく 、 へん に ひと を ムカムカ さ せる 表情 の 写真 で あっ た 。 私 は これ まで 、 こんな 不思議 な 表情 の 子供 を 見 た 事 が 、 いちど も 無かっ た 。 
第 二 葉 の 写真 の 顔 は 、 これ は また 、 びっくり する くらい ひどく 変貌 し て い た 。 学生 の 姿 で ある 。 高等 学校 時代 の 写真 か 、 大学 時代 の 写真 か 、 はっきり し ない けれども 、 とにかく 、 おそろしく 美貌 の 学生 で ある 。 しかし 、 これ も また 、 不思議 に も 、 生き て いる 人間 の 感じ は し なかっ た 。 学生 服 を 着 て 、 胸 の ポケット から 白い ハンケチ を 覗か せ 、 籐椅子 に 腰かけ て 足 を 組み 、 そうして 、 やはり 、 笑っ て いる 。 こんど の 笑顔 は 、 皺くちゃ の 猿 の 笑い で なく 、 かなり 巧み な 微笑 に なっ て は いる が 、 しかし 、 人間 の 笑い と 、 どこ やら 違う 。 血 の 重 さ 、 と でも 言お う か 、 生命 の 渋 さ 、 と でも 言お う か 、 その よう な 充実 感 は 少し も 無く 、 それ こそ 、 鳥 の よう で は なく 、 羽毛 の よう に 軽く 、 ただ 白紙 一 枚 、 そうして 、 笑っ て いる 。 つまり 、 一 から 十 まで 造り 物 の 感じ な の で ある 。 キザ と 言っ て も 足り ない 。 軽薄 と 言っ て も 足り ない 。 ニヤケ と 言っ て も 足り ない 。 おしゃれ と 言っ て も 、 もちろん 足り ない 。 しかも 、 よく 見 て いる と 、 やはり この 美貌 の 学生 に も 、 どこ か 怪談 じみ た 気味悪い もの が 感ぜ られ て 来る の で ある 。 私 は これ まで 、 こんな 不思議 な 美貌 の 青年 を 見 た 事 が 、 いちど も 無かっ た 。 
もう 一 葉 の 写真 は 、 最も 奇怪 な もの で ある 。 まるで もう 、 と し の 頃 が わから ない 。 頭 は いくぶん 白髪 の よう で ある 。 それ が 、 ひどく 汚い 部屋 （ 部屋 の 壁 が 三 箇所 ほど 崩れ落ち て いる の が 、 その 写真 に ハッキリ 写っ て いる ） の 片隅 で 、 小さい 火鉢 に 両手 を かざし 、 こんど は 笑っ て い ない 。 どんな 表情 も 無い 。 謂わ ば 、 坐っ て 火鉢 に 両手 を かざし ながら 、 自然 に 死ん で いる よう な 、 まことに いまわしい 、 不吉 な におい の する 写真 で あっ た 。 奇怪 な の は 、 それ だけ で ない 。 その 写真 に は 、 わりに 顔 が 大きく 写っ て い た ので 、 私 は 、 つくづく その 顔 の 構造 を 調べる 事 が 出来 た の で ある が 、 額 は 平凡 、 額 の 皺 も 平凡 、 眉 も 平凡 、 眼 も 平凡 、 鼻 も 口 も 顎 も 、 ああ 、 この 顔 に は 表情 が 無い ばかり か 、 印象 さえ 無い 。 特徴 が 無い の だ 。 たとえば 、 私 が この 写真 を 見 て 、 眼 を つぶる 。 既に 私 は この 顔 を 忘れ て いる 。 部屋 の 壁 や 、 小さい 火鉢 は 思い出す 事 が 出来る けれども 、 その 部屋 の 主人公 の 顔 の 印象 は 、 すっと 霧 消し て 、 どうしても 、 何 と し て も 思い出せ ない 。 画 に なら ない 顔 で ある 。 漫画 に も 何 も なら ない 顔 で ある 。 眼 を ひらく 。 あ 、 こんな 顔 だっ た の か 、 思い出し た 、 という よう な よろこび さえ 無い 。 極端 な 言い方 を すれ ば 、 眼 を ひらい て その 写真 を 再び 見 て も 、 思い出せ ない 。 そうして 、 ただ もう 不愉快 、 イライラ し て 、 つい 眼 を そむけ たく なる 。 
所 謂 「 死相 」 という もの に だって 、 もっと 何 か 表情 なり 印象 なり が ある もの だろ う に 、 人間 の からだ に 駄馬 の 首 で も くっつけ た なら 、 こんな 感じ の もの に なる で あろ う か 、 とにかく 、 どこ という 事 なく 、 見る 者 を し て 、 ぞっと さ せ 、 いや な 気持 に さ せる の だ 。 私 は これ まで 、 こんな 不思議 な 男 の 顔 を 見 た 事 が 、 やはり 、 いちど も 無かっ た 。 
第 一 の 手記 
恥 の 多い 生涯 を 送っ て 来 まし た 。 
自分 に は 、 人間 の 生活 という もの が 、 見当 つか ない の です 。 自分 は 東北 の 田舎 に 生れ まし た ので 、 汽車 を はじめて 見 た の は 、 よほど 大きく なっ て から でし た 。 自分 は 停車場 の ブリッジ を 、 上っ て 、 降り て 、 そう し て それ が 線路 を またぎ 越える ため に 造ら れ た もの だ という 事 に は 全然 気づか ず 、 ただ それ は 停車場 の 構内 を 外国 の 遊戯 場 みたい に 、 複雑 に 楽しく 、 ハイカラ に する ため に のみ 、 設備 せら れ て ある もの だ と ばかり 思っ て い まし た 。 しかも 、 かなり 永い 間 そう 思っ て い た の です 。 ブリッジ の 上っ たり 降り たり は 、 自分 に は むしろ 、 ずいぶん 垢抜け の し た 遊戯 で 、 それ は 鉄道 の サーヴィス の 中 でも 、 最も 気 の きい た サーヴィス の 一つ だ と 思っ て い た の です が 、 のち に それ は ただ 旅客 が 線路 を またぎ 越える ため の 頗る 実利 的 な 階段 に 過ぎ ない の を 発見 し て 、 にわかに 興 が 覚め まし た 。 
また 、 自分 は 子供 の 頃 、 絵本 で 地下鉄 道 という もの を 見 て 、 これ も やはり 、 実利 的 な 必要 から 案出 せら れ た もの で は なく 、 地上 の 車 に 乗る より は 、 地下 の 車 に 乗っ た ほう が 風 がわり で 面白い 遊び だ から 、 と ばかり 思っ て い まし た 。 
自分 は 子供 の 頃 から 病弱 で 、 よく 寝込み まし た が 、 寝 ながら 、 敷布 、 枕 の カヴァ 、 掛蒲団 の カヴァ を 、 つくづく 、 つまらない 装飾 だ と 思い 、 それ が 案外 に 実 用品 だっ た 事 を 、 二 十 歳 ちかく に なっ て わかっ て 、 人間 の つまし さ に 暗然 と し 、 悲しい 思い を し まし た 。 
また 、 自分 は 、 空腹 という 事 を 知り ませ ん でし た 。 いや 、 それ は 、 自分 が 衣食住 に 困ら ない 家 に 育っ た という 意味 で は なく 、 そんな 馬鹿 な 意味 で は なく 、 自分 に は 「 空腹 」 という 感覚 は どんな もの だ か 、 さっぱり わから なかっ た の です 。 へん な 言い かた です が 、 おなか が 空い て い て も 、 自分 で それ に 気がつか ない の です 。 小学校 、 中学校 、 自分 が 学校 から 帰っ て 来る と 、 周囲 の 人 たち が 、 それ 、 おなか が 空い たろ う 、 自分 たち に も 覚え が ある 、 学校 から 帰っ て 来 た 時 の 空腹 は 全く ひどい から な 、 甘納豆 は どう ？ 　 カステラ も 、 パン も ある よ 、 など と 言っ て 騒ぎ ます ので 、 自分 は 持ち前 の おべっか 精神 を 発揮 し て 、 おなか が 空い た 、 と 呟い て 、 甘納豆 を 十 粒 ばかり 口 に ほうり込む の です が 、 空腹 感 と は 、 どんな もの だ か 、 ちっとも わかっ て い やし なかっ た の です 。 
自分 だって 、 それ は 勿論 、 大いに もの を 食べ ます が 、 しかし 、 空腹 感 から 、 もの を 食べ た 記憶 は 、 ほとんど あり ませ ん 。 めずらしい と 思わ れ た もの を 食べ ます 。 豪華 と 思わ れ た もの を 食べ ます 。 また 、 よそ へ 行っ て 出さ れ た もの も 、 無理 を し て まで 、 たいてい 食べ ます 。 そうして 、 子供 の 頃 の 自分 にとって 、 最も 苦痛 な 時刻 は 、 実に 、 自分 の 家 の 食事 の 時間 でし た 。 
自分 の 田舎 の 家 で は 、 十 人 くらい の 家族 全部 、 めいめい の お 膳 を 二 列 に 向い合せ に 並べ て 、 末っ子 の 自分 は 、 もちろん 一 ばん 下 の 座 でし た が 、 その 食事 の 部屋 は 薄暗く 、 昼 ごはん の 時 など 、 十 幾 人 の 家族 が 、 ただ 黙々 として めし を 食っ て いる 有様 に は 、 自分 は いつも 肌寒い 思い を し まし た 。 それ に 田舎 の 昔気質 の 家 でし た ので 、 おかず も 、 たいてい きまっ て い て 、 めずらしい もの 、 豪華 な もの 、 そんな もの は 望む べく も なかっ た ので 、 いよいよ 自分 は 食事 の 時刻 を 恐怖 し まし た 。 自分 は その 薄暗い 部屋 の 末席 に 、 寒 さ に がたがた 震える 思い で 口 に ごはん を 少量 ずつ 運び 、 押し込み 、 人間 は 、 どうして 一 日 に 三度々々 ごはん を 食べる の だろ う 、 実に みな 厳粛 な 顔 を し て 食べ て いる 、 これ も 一種 の 儀式 の よう な もの で 、 家族 が 日 に 三度々々 、 時刻 を きめ て 薄暗い 一 部屋 に 集り 、 お 膳 を 順序 正しく 並べ 、 食べ たく なく て も 無言 で ごはん を 噛み ながら 、 うつむき 、 家中 に うごめい て いる 霊 たち に 祈る ため の もの かも 知れ ない 、 と さえ 考え た 事 が ある くらい でし た 。 
めし を 食べ なけれ ば 死ぬ 、 という 言葉 は 、 自分 の 耳 に は 、 ただ イヤ な おどかし と しか 聞え ませ ん でし た 。 その 迷信 は 、 （ いま でも 自分 に は 、 何だか 迷信 の よう に 思わ れ て なら ない の です が ） しかし 、 いつも 自分 に 不安 と 恐怖 を 与え まし た 。 人間 は 、 めし を 食べ なけれ ば 死ぬ から 、 その ため に 働い て 、 めし を 食べ なけれ ば なら ぬ 、 という 言葉 ほど 自分 にとって 難解 で 晦渋 で 、 そうして 脅迫 めい た 響き を 感じ させる 言葉 は 、 無かっ た の です 。 
つまり 自分 に は 、 人間 の 営み という もの が 未だに 何 も わかっ て い ない 、 という 事 に なり そう です 。 自分 の 幸福 の 観念 と 、 世 の すべて の 人 たち の 幸福 の 観念 と が 、 まるで 食い ちがっ て いる よう な 不安 、 自分 は その 不安 の ため に 夜々 、 転 輾 し 、 呻吟 し 、 発狂 しかけ た 事 さえ あり ます 。 自分 は 、 いったい 幸福 な の でしょ う か 。 自分 は 小さい 時 から 、 実に しばしば 、 仕合せ 者 だ と 人 に 言わ れ て 来 まし た が 、 自分 で は いつも 地獄 の 思い で 、 かえって 、 自分 を 仕合せ 者 だ と 言っ た ひと たち の ほう が 、 比較 に も 何 も なら ぬ くらい ずっと ずっと 安楽 な よう に 自分 に は 見える の です 。 
自分 に は 、 禍 い の かたまり が 十 個 あっ て 、 その 中 の 一 個 でも 、 隣人 が 脊負 っ たら 、 その 一 個 だけ でも 充分 に 隣人 の 生 命取り に なる の で は ある まい か と 、 思っ た 事 さえ あり まし た 。 
つまり 、 わから ない の です 。 隣人 の 苦しみ の 性質 、 程度 が 、 まるで 見当 つか ない の です 。 プラクテカル な 苦しみ 、 ただ 、 めし を 食え たら それ で 解決 できる 苦しみ 、 しかし 、 それ こそ 最も 強い 痛苦 で 、 自分 の 例 の 十 個 の 禍 い など 、 吹っ飛ん で しまう 程 の 、 凄惨 な 阿鼻地獄 な の かも 知れ ない 、 それ は 、 わから ない 、 しかし 、 それ に し て は 、 よく 自殺 も せ ず 、 発狂 も せ ず 、 政党 を 論じ 、 絶望 せ ず 、 屈せ ず 生活 の たたかい を 続け て 行ける 、 苦しく ない ん じゃ ない か ？ 　 エゴイスト に なり きっ て 、 しかも それ を 当然 の 事 と 確信 し 、 いちど も 自分 を 疑っ た 事 が 無い ん じゃ ない か ？ 　 それなら 、 楽 だ 、 しかし 、 人間 という もの は 、 皆 そんな もの で 、 また それ で 満点 な の で は ない かしら 、 わから ない 、 … … 夜 は ぐっすり 眠り 、 朝 は 爽快 な の かしら 、 どんな 夢 を 見 て いる の だろ う 、 道 を 歩き ながら 何 を 考え て いる の だろ う 、 金 ？ 　 まさか 、 それ だけ で も 無い だろ う 、 人間 は 、 めし を 食う ため に 生き て いる の だ 、 という 説 は 聞い た 事 が ある よう な 気 が する けれども 、 金 の ため に 生き て いる 、 という 言葉 は 、 耳 に し た 事 が 無い 、 いや 、 しかし 、 ことに 依る と 、 … … いや 、 それ も わから ない 、 … … 考えれ ば 考える ほど 、 自分 に は 、 わから なく なり 、 自分 ひとり 全く 変っ て いる よう な 、 不安 と 恐怖 に 襲わ れる ばかり な の です 。 自分 は 隣人 と 、 ほとんど 会話 が 出来 ませ ん 。 何 を 、 どう 言っ たら いい の か 、 わから ない の です 。 
そこで 考え出し た の は 、 道化 でし た 。 
それ は 、 自分 の 、 人間 に対する 最後 の 求愛 でし た 。 自分 は 、 人間 を 極度 に 恐れ て い ながら 、 それでいて 、 人間 を 、 どうしても 思い切れ なかっ た らしい の です 。 そうして 自分 は 、 この 道化 の 一線 で わずか に 人間 に つながる 事 が 出来 た の でし た 。 お もて で は 、 絶えず 笑顔 を つくり ながら も 、 内心 は 必死 の 、 それ こそ 千 番 に 一番 の 兼ね合い と で も いう べき 危機一髪 の 、 油 汗 流し て の サーヴィス でし た 。 
自分 は 子供 の 頃 から 、 自分 の 家族 の 者 たち に対して さえ 、 彼等 が どんなに 苦しく 、 また どんな 事 を 考え て 生き て いる の か 、 まるで ちっとも 見当 つか ず 、 ただ おそろしく 、 その 気まず さ に 堪える 事 が 出来 ず 、 既に 道化 の 上手 に なっ て い まし た 。 つまり 、 自分 は 、 いつのまに やら 、 一言 も 本当 の 事 を 言わ ない 子 に なっ て い た の です 。 
その 頃 の 、 家族 たち と 一緒 に うつし た 写真 など を 見る と 、 他 の 者 たち は 皆 まじめ な 顔 を し て いる のに 、 自分 ひとり 、 必ず 奇妙 に 顔 を ゆがめ て 笑っ て いる の です 。 これ も また 、 自分 の 幼く 悲しい 道化 の 一種 でし た 。 
また 自分 は 、 肉親 たち に 何 か 言わ れ て 、 口 応え し た 事 は いちど も 有り ませ ん でし た 。 その わずか な おこ ごと は 、 自分 に は 霹靂 の 如く 強く 感ぜ られ 、 狂う みたい に なり 、 口 応え どころか 、 その おこ ごと こそ 、 謂わ ば 万世 一 系 の 人間 の 「 真理 」 とかいう もの に 違い ない 、 自分 に は その 真理 を 行う 力 が 無い の だ から 、 もはや 人間 と 一緒 に 住め ない の で は ない かしら 、 と 思い込ん で しまう の でし た 。 だから 自分 に は 、 言い争い も 自己 弁解 も 出来 ない の でし た 。 人 から 悪く 言わ れる と 、 いかにも 、 もっとも 、 自分 が ひどい 思い違い を し て いる よう な 気 が し て 来 て 、 いつも その 攻撃 を 黙し て 受け 、 内心 、 狂う ほど の 恐怖 を 感じ まし た 。 
それ は 誰 でも 、 人 から 非難 せら れ たり 、 怒ら れ たり し て いい 気持 が する もの で は 無い かも 知れ ませ ん が 、 自分 は 怒っ て いる 人間 の 顔 に 、 獅子 より も 鰐 より も 竜 より も 、 もっと おそろしい 動物 の 本性 を 見る の です 。 ふだん は 、 その 本性 を かくし て いる よう です けれども 、 何 か の 機会 に 、 たとえば 、 牛 が 草原 で おっとり し た 形 で 寝 て い て 、 突如 、 尻尾 で ピシッ と 腹 の 虻 を 打ち殺す みたい に 、 不意 に 人間 の おそろしい 正体 を 、 怒り に 依っ て 暴露 する 様子 を 見 て 、 自分 は いつも 髪 の 逆立つ ほど の 戦慄 を 覚え 、 この 本性 も また 人間 の 生き て 行く 資格 の 一つ な の かも 知れ ない と 思え ば 、 ほとんど 自分 に 絶望 を 感じる の でし た 。 
人間 に対して 、 いつも 恐怖 に 震い おののき 、 また 、 人間 として の 自分 の 言動 に 、 みじん も 自信 を 持て ず 、 そうして 自分 ひとり の 懊悩 は 胸 の 中 の 小 箱 に 秘め 、 その 憂鬱 、 ナアヴァスネス を 、 ひたかくし に 隠し て 、 ひたすら 無邪気 の 楽天 性 を 装い 、 自分 は お 道化 た お 変人 として 、 次第に 完成 さ れ て 行き まし た 。 
何 でも いい から 、 笑わせ て おれ ば いい の だ 、 そう する と 、 人間 たち は 、 自分 が 彼等 の 所 謂 「 生活 」 の 外 に い て も 、 あまり それ を 気 に し ない の で は ない かしら 、 とにかく 、 彼等 人間 たち の 目障り に なっ て は いけ ない 、 自分 は 無 だ 、 風 だ 、 空 だ 、 という よう な 思い ばかり が 募り 、 自分 は お 道化 に 依っ て 家族 を 笑わせ 、 また 、 家族 より も 、 もっと 不可解 で おそろしい 下男 や 下女 に まで 、 必死 の お 道化 の サーヴィス を し た の です 。 
自分 は 夏 に 、 浴衣 の 下 に 赤い 毛糸 の セエター を 着 て 廊下 を 歩き 、 家中 の 者 を 笑わせ まし た 。 めった に 笑わ ない 長兄 も 、 それ を 見 て 噴き出し 、 
「 それ あ 、 葉 ちゃん 、 似合わ ない 」 
と 、 可愛く て たまらない よう な 口調 で 言い まし た 。 なに 、 自分 だって 、 真夏 に 毛糸 の セエター を 着 て 歩く ほど 、 いくら 何 でも 、 そんな 、 暑 さ 寒 さ を 知ら ぬ お 変人 で は あり ませ ん 。 姉 の 脚絆 を 両 腕 に はめ て 、 浴衣 の 袖口 から 覗か せ 、 以 て セエター を 着 て いる よう に 見せかけ て い た の です 。 
自分 の 父 は 、 東京 に 用事 の 多い ひと でし た ので 、 上野 の 桜木 町 に 別荘 を 持っ て い て 、 月 の 大半 は 東京 の その 別荘 で 暮し て い まし た 。 そう し て 帰る 時 に は 家族 の 者 たち 、 また 親戚 の 者 たち に まで 、 実に おびただしく お 土産 を 買っ て 来る の が 、 まあ 、 父 の 趣味 みたい な もの でし た 。 
いつか の 父 の 上京 の 前夜 、 父 は 子供 たち を 客間 に 集め 、 こんど 帰る 時 に は 、 どんな お 土産 が いい か 、 一 人 々 々 に 笑い ながら 尋ね 、 それ に対する 子供 たち の 答 を いちいち 手帖 に 書きとめる の でし た 。 父 が 、 こんなに 子供 たち と 親しく する の は 、 めずらしい 事 でし た 。 
「 葉 蔵 は ？ 」 
と 聞か れ て 、 自分 は 、 口ごもっ て しまい まし た 。 
何 が 欲しい と 聞か れる と 、 とたんに 、 何 も 欲しく なく なる の でし た 。 どう でも いい 、 どうせ 自分 を 楽しく さ せ て くれる もの なんか 無い ん だ という 思い が 、 ちら と 動く の です 。 と 、 同時に 、 人 から 与え られる もの を 、 どんなに 自分 の 好み に 合わ なく て も 、 それ を 拒む 事 も 出来 ませ ん でし た 。 イヤ な 事 を 、 イヤ と 言え ず 、 また 、 好き な 事 も 、 おずおず と 盗む よう に 、 極めて にがく 味 い 、 そう し て 言い 知れ ぬ 恐怖 感 に もだえる の でし た 。 つまり 、 自分 に は 、 二 者 選 一 の 力 さえ 無かっ た の です 。 これ が 、 後年 に 到り 、 いよいよ 自分 の 所 謂 「 恥 の 多い 生涯 」 の 、 重大 な 原因 と も なる 性癖 の 一つ だっ た よう に 思わ れ ます 。 
自分 が 黙っ て 、 もじもじ し て いる ので 、 父 は ちょっと 不機嫌 な 顔 に なり 、 
「 やはり 、 本 か 。 浅草 の 仲店 に お正月 の 獅子 舞い の お 獅子 、 子供 が かぶっ て 遊ぶ の に は 手頃 な 大き さ の が 売っ て い た けど 、 欲しく ない か 」 
欲しく ない か 、 と 言わ れる と 、 もう ダメ な ん です 。 お 道化 た 返事 も 何 も 出来 やし ない ん です 。 お 道化 役者 は 、 完全 に 落第 でし た 。 
「 本 が 、 いい でしょ う 」 
長兄 は 、 まじめ な 顔 を し て 言い まし た 。 
「 そう か 」 
父 は 、 興 覚め 顔 に 手帖 に 書きとめ も せ ず 、 パチ と 手帖 を 閉じ まし た 。 
何 という 失敗 、 自分 は 父 を 怒ら せ た 、 父 の 復讐 は 、 きっと 、 おそるべき もの に 違い ない 、 いま の うち に 何とか し て 取りかえ し の つか ぬ もの か 、 と その 夜 、 蒲団 の 中 で がたがた 震え ながら 考え 、 そっと 起き て 客間 に 行き 、 父 が 先刻 、 手帖 を しまい 込ん だ 筈 の 机 の 引き出し を あけ て 、 手帖 を 取り上げ 、 パラパラ めくっ て 、 お 土産 の 注文 記入 の 個所 を 見つけ 、 手帖 の 鉛筆 を なめ て 、 シシ マイ 、 と 書い て 寝 まし た 。 自分 は その 獅子 舞い の お 獅子 を 、 ちっとも 欲しく は 無かっ た の です 。 かえって 、 本 の ほう が いい くらい でし た 。 けれども 、 自分 は 、 父 が その お 獅子 を 自分 に 買っ て 与え たい の だ という 事 に 気がつき 、 父 の その 意向 に 迎合 し て 、 父 の 機嫌 を 直し たい ばかり に 、 深夜 、 客間 に 忍び込む という 冒険 を 、 敢えて おかし た の でし た 。 
そうして 、 この 自分 の 非常 の 手段 は 、 果して 思い どおり の 大 成功 を以て 報い られ まし た 。 やがて 、 父 は 東京 から 帰っ て 来 て 、 母 に 大声 で 言っ て いる の を 、 自分 は 子供部屋 で 聞い て い まし た 。 
「 仲店 の おもちゃ 屋 で 、 この 手帖 を 開い て み たら 、 これ 、 ここ に 、 シシ マイ 、 と 書い て ある 。 これ は 、 私 の 字 で は ない 。 はてな ？ 　 と 首 を かしげ て 、 思い当り まし た 。 これ は 、 葉 蔵 の いたずら です よ 。 あいつ は 、 私 が 聞い た 時 に は 、 にやにや し て 黙っ て い た が 、 あと で 、 どうしても お 獅子 が 欲しく て たまらなく なっ た ん だ ね 。 何せ 、 どうも 、 あれ は 、 変っ た 坊主 です から ね 。 知らん振り し て 、 ちゃんと 書い て いる 。 そんなに 欲しかっ た の なら 、 そう 言え ば よい のに 。 私 は 、 おもちゃ 屋 の 店先 で 笑い まし た よ 。 葉 蔵 を 早く ここ へ 呼び なさい 」 
また 一方 、 自分 は 、 下男 や 下女 たち を 洋室 に 集め て 、 下男 の ひとり に 滅茶苦茶 に ピアノ の キイ を たたか せ 、 （ 田舎 で は あり まし た が 、 その 家 に は 、 たいてい の もの が 、 そろっ て い まし た ） 自分 は その 出鱈目 の 曲 に 合せ て 、 インデヤン の 踊り を 踊っ て 見せ て 、 皆 を 大笑い さ せ まし た 。 次兄 は 、 フラッシュ を 焚い て 、 自分 の インデヤン 踊り を 撮影 し て 、 その 写真 が 出来 た の を 見る と 、 自分 の 腰布 （ それ は 更紗 の 風呂敷 でし た ） の 合せ 目 から 、 小さい お チン ポ が 見え て い た ので 、 これ が また 家中 の 大笑い でし た 。 自分 にとって 、 これ また 意外 の 成功 と いう べき もの だっ た かも 知れ ませ ん 。 
自分 は 毎月 、 新刊 の 少年 雑誌 を 十 冊 以上 も 、 とっ て い て 、 また その他 に も 、 さまざま の 本 を 東京 から 取り寄せ て 黙っ て 読ん で い まし た ので 、 メチャラクチャラ 博士 だの 、 また 、 ナンジャモンジャ 博士 など と は 、 たいへん な 馴染 で 、 また 、 怪談 、 講談 、 落語 、 江戸 小咄 など の 類 に も 、 かなり 通じ て い まし た から 、 剽軽 な 事 を まじめ な 顔 を し て 言っ て 、 家 の 者 たち を 笑わせる の に は 事 を 欠き ませ ん でし た 。 
しかし 、 嗚呼 、 学校 ！ 
自分 は 、 そこ で は 、 尊敬 さ れ かけ て い た の です 。 尊敬 さ れる という 観念 も また 、 甚だ 自分 を 、 おびえ させ まし た 。 ほとんど 完全 に 近く 人 を だまし て 、 そうして 、 或 る ひとり の 全知全能 の 者 に 見破ら れ 、 木 っ 葉 みじん に やら れ て 、 死 ぬる 以上 の 赤恥 を かか せ られる 、 それ が 、 「 尊敬 さ れる 」 という 状態 の 自分 の 定義 で あり まし た 。 人間 を だまし て 、 「 尊敬 さ れ 」 て も 、 誰 か ひとり が 知っ て いる 、 そうして 、 人間 たち も 、 やがて 、 その ひとり から 教え られ て 、 だまさ れ た 事 に 気づい た 時 、 その 時 の 人間 たち の 怒り 、 復讐 は 、 いったい 、 まあ 、 どんな でしょ う か 。 想像 し て さえ 、 身の毛 が よだつ 心地 が する の です 。 
自分 は 、 金持ち の 家 に 生れ た という 事 より も 、 俗 に いう 「 できる 」 事 に 依っ て 、 学校 中 の 尊敬 を 得 そう に なり まし た 。 自分 は 、 子供 の 頃 から 病弱 で 、 よく 一 つき 二 つき 、 また 一 学年 ちかく も 寝込ん で 学校 を 休ん だ 事 さえ あっ た の です が 、 それでも 、 病み上り の からだ で 人力車 に 乗っ て 学校 へ 行き 、 学年 末 の 試験 を 受け て みる と 、 クラス の 誰 より も 所 謂 「 でき て 」 いる よう でし た 。 から だ 具合い の よい 時 でも 、 自分 は 、 さっぱり 勉強 せ ず 、 学校 へ 行っ て も 授業 時間 に 漫画 など を 書き 、 休憩 時間 に は それ を クラス の 者 たち に 説明 し て 聞か せ て 、 笑わせ て やり まし た 。 また 、 綴り 方 に は 、 滑稽 噺 ばかり 書き 、 先生 から 注意 さ れ て も 、 しかし 、 自分 は 、 やめ ませ ん でし た 。 先生 は 、 実は こっそり 自分 の その 滑稽 噺 を 楽しみ に し て いる 事 を 自分 は 、 知っ て い た から でし た 。 或 る 日 、 自分 は 、 れい に 依っ て 、 自分 が 母 に 連れ られ て 上京 の 途中 の 汽車 で 、 おしっこ を 客車 の 通路 に ある 痰 壺 に し て しまっ た 失敗談 （ しかし 、 その 上京 の 時 に 、 自分 は 痰 壺 と 知ら ず に し た の で は あり ませ ん でし た 。 子供 の 無邪気 を てらっ て 、 わざと 、 そうした の でし た ） を 、 こと さらに 悲し そう な 筆致 で 書い て 提出 し 、 先生 は 、 きっと 笑う という 自信 が あり まし た ので 、 職員 室 に 引き揚げ て 行く 先生 の あと を 、 そっと つけ て 行き まし たら 、 先生 は 、 教室 を 出る と すぐ 、 自分 の その 綴り 方 を 、 他 の クラス の 者 たち の 綴り 方 の 中 から 選び出し 、 廊下 を 歩き ながら 読み はじめ て 、 クス クス 笑い 、 やがて 職員 室 に は いっ て 読み 終え た の か 、 顔 を 真赤 に し て 大声 を 挙げ て 笑い 、 他 の 先生 に 、 さっそく それ を 読ま せ て いる の を 見 とどけ 、 自分 は 、 たいへん 満足 でし た 。 
お茶 目 。 
自分 は 、 所 謂 お茶 目 に 見 られる 事 に 成功 し まし た 。 尊敬 さ れる 事 から 、 のがれる 事 に 成功 し まし た 。 通信 簿 は 全 学科 とも 十 点 でし た が 、 操行 という もの だけ は 、 七 点 だっ たり 、 六 点 だっ たり し て 、 それ も また 家中 の 大笑い の 種 でし た 。 
けれども 自分 の 本性 は 、 そんな お茶 目 さん など と は 、 凡そ 対蹠 的 な もの でし た 。 その 頃 、 既に 自分 は 、 女中 や 下男 から 、 哀しい 事 を 教え られ 、 犯さ れ て い まし た 。 幼少 の 者 に対して 、 その よう な 事 を 行う の は 、 人間 の 行い 得る 犯罪 の 中 で 最も 醜悪 で 下等 で 、 残酷 な 犯罪 だ と 、 自分 は いま で は 思っ て い ます 。 しかし 、 自分 は 、 忍び まし た 。 これ で また 一つ 、 人間 の 特質 を 見 た という よう な 気持 さえ し て 、 そうして 、 力 無く 笑っ て い まし た 。 もし 自分 に 、 本当 の 事 を 言う 習慣 が つい て い た なら 、 悪びれ ず 、 彼等 の 犯罪 を 父 や 母 に 訴える 事 が 出来 た の かも 知れ ませ ん が 、 しかし 、 自分 は 、 その 父 や 母 を も 全部 は 理解 する 事 が 出来 なかっ た の です 。 人間 に 訴える 、 自分 は 、 その 手段 に は 少し も 期待 でき ませ ん でし た 。 父 に 訴え て も 、 母 に 訴え て も 、 お巡り に 訴え て も 、 政府 に 訴え て も 、 結局 は 世渡り に 強い 人 の 、 世間 に 通り の いい 言いぶん に 言いまくら れる だけ の 事 で は 無い かしら 。 
必ず 片手 落 の ある の が 、 わかり 切っ て いる 、 所詮 、 人間 に 訴える の は 無駄 で ある 、 自分 は やはり 、 本当 の 事 は 何 も 言わ ず 、 忍ん で 、 そうして お 道化 を つづけ て いる より 他 、 無い 気持 な の でし た 。 
なん だ 、 人間 へ の 不信 を 言っ て いる の か ？ 　 へえ ？ 　 お前 は い つ クリス チャン に なっ た ん だい 、 と 嘲笑 する 人 も 或いは ある かも 知れ ませ ん が 、 しかし 、 人間 へ の 不信 は 、 必ずしも すぐ に 宗教 の 道 に 通じ て いる と は 限ら ない と 、 自分 に は 思わ れる の です けど 。 現に その 嘲笑 する 人 を も 含め て 、 人間 は 、 お互い の 不信 の 中 で 、 エホバ も 何 も 念頭 に 置か ず 、 平気 で 生き て いる で は あり ませ ん か 。 やはり 、 自分 の 幼少 の 頃 の 事 で あり まし た が 、 父 の 属し て い た 或 る 政党 の 有名人 が 、 この 町 に 演説 に 来 て 、 自分 は 下男 たち に 連れ られ て 劇場 に 聞き に 行き まし た 。 満員 で 、 そうして 、 この 町 の 特に 父 と 親しく し て いる 人 たち の 顔 は 皆 、 見え て 、 大いに 拍手 など し て い まし た 。 演説 が すん で 、 聴衆 は 雪 の 夜道 を 三々五々 かたまっ て 家路 に 就き 、 クソ ミソ に 今夜 の 演説 会 の 悪口 を 言っ て いる の でし た 。 中 に は 、 父 と 特に 親しい 人 の 声 も まじっ て い まし た 。 父 の 開会 の 辞 も 下手 、 れい の 有名人 の 演説 も 何 が 何やら 、 わけ が わから ぬ 、 と その 所 謂 父 の 「 同志 たち 」 が 怒声 に 似 た 口調 で 言っ て いる の です 。 そうして その ひと たち は 、 自分 の 家 に 立ち寄っ て 客間 に 上り 込み 、 今夜 の 演説 会 は 大 成功 だっ た と 、 しん から 嬉し そう な 顔 を し て 父 に 言っ て い まし た 。 下男 たち まで 、 今夜 の 演説 会 は どう だっ た と 母 に 聞か れ 、 とても 面白かっ た 、 と 言っ て けろりと し て いる の です 。 演説 会 ほど 面白く ない もの は ない 、 と 帰る 途 々 、 下男 たち が 嘆き 合っ て い た の です 。 
しかし 、 こんな の は 、 ほんの ささやか な 一 例 に 過ぎ ませ ん 。 互いに あざむき 合っ て 、 しかも いずれ も 不思議 に 何 の 傷 も つか ず 、 あざむき 合っ て いる 事 に さえ 気がつい て い ない みたい な 、 実に あざやか な 、 それ こそ 清く 明るく ほ がら か な 不信 の 例 が 、 人間 の 生活 に 充満 し て いる よう に 思わ れ ます 。 けれども 、 自分 に は 、 あざむき 合っ て いる という 事 に は 、 さして 特別 の 興味 も あり ませ ん 。 自分 だって 、 お 道化 に 依っ て 、 朝 から 晩 まで 人間 を あざむい て いる の です 。 自分 は 、 修身 教科書 的 な 正義 とか 何 とかいう 道徳 に は 、 あまり 関心 を 持て ない の です 。 自分 に は 、 あざむき 合っ て い ながら 、 清く 明るく 朗らか に 生き て いる 、 或いは 生き 得る 自信 を 持っ て いる みたい な 人間 が 難解 な の です 。 人間 は 、 ついに 自分 に その 妙諦 を 教え て は くれ ませ ん でし た 。 それ さえ わかっ たら 、 自分 は 、 人間 を こんなに 恐怖 し 、 また 、 必死 の サーヴィス など し なく て 、 すん だ の でしょ う 。 人間 の 生活 と 対立 し て しまっ て 、 夜々 の 地獄 の これ ほど の 苦しみ を 嘗め ず に すん だ の でしょ う 。 つまり 、 自分 が 下男 下女 たち の 憎む べき あの 犯罪 を さえ 、 誰 に も 訴え なかっ た の は 、 人間 へ の 不信 から で は なく 、 また 勿論 クリ スト 主義 の ため で も なく 、 人間 が 、 葉 蔵 という 自分 に対して 信用 の 殻 を 固く 閉じ て い た から だっ た と 思い ます 。 父母 で さえ 、 自分 にとって 難解 な もの を 、 時折 、 見せる 事 が あっ た の です から 。 
そうして 、 その 、 誰 に も 訴え ない 、 自分 の 孤独 の 匂い が 、 多く の 女性 に 、 本能 に 依っ て 嗅ぎ当て られ 、 後年 さまざま 、 自分 が つけ込ま れる 誘因 の 一つ に なっ た よう な 気 も する の です 。 
つまり 、 自分 は 、 女性 にとって 、 恋 の 秘密 を 守れる 男 で あっ た という わけ な の でし た 。 
第 二 の 手記 
海 の 、 波打 際 、 と いっ て も いい くらい に 海 に ちかい 岸辺 に 、 真黒い 樹 肌 の 山桜 の 、 かなり 大きい の が 二 十 本 以上 も 立ちならび 、 新 学年 が はじまる と 、 山桜 は 、 褐色 の ねばっこい よう な 嫩葉 と共に 、 青い 海 を 背景 に し て 、 その 絢爛 たる 花 を ひらき 、 やがて 、 花吹雪 の 時 に は 、 花びら が おびただしく 海 に 散り 込み 、 海面 を 鏤め て 漂い 、 波 に 乗せ られ 再び 波打 際 に 打ちかえさ れる 、 その 桜 の 砂浜 が 、 そのまま 校庭 として 使用 せら れ て いる 東北 の 或 る 中学校 に 、 自分 は 受験 勉強 も ろくに し なかっ た のに 、 どうやら 無事 に 入学 でき まし た 。 そうして 、 その 中学 の 制帽 の 徽章 に も 、 制服 の ボタン に も 、 桜 の 花 が 図案 化 せら れ て 咲い て い まし た 。 
その 中学校 の すぐ 近く に 、 自分 の 家 と 遠い 親戚 に 当る 者 の 家 が あり まし た ので 、 その 理由 も あっ て 、 父 が その 海 と 桜 の 中学校 を 自分 に 選ん で くれ た の でし た 。 自分 は 、 その 家 に あずけ られ 、 何せ 学校 の すぐ 近く な ので 、 朝礼 の 鐘 の 鳴る の を 聞い て から 、 走っ て 登校 する という よう な 、 かなり 怠惰 な 中学生 でし た が 、 それでも 、 れい の お 道化 に 依っ て 、 日 一 日 と クラス の 人気 を 得 て い まし た 。 
生れ て はじめ て 、 謂わ ば 他郷 へ 出 た わけ な の です が 、 自分 に は 、 その 他郷 の ほう が 、 自分 の 生れ 故郷 より も 、 ずっと 気楽 な 場所 の よう に 思わ れ まし た 。 それ は 、 自分 の お 道化 も その 頃 に は いよいよ ぴったり 身 について 来 て 、 人 を あざむく の に 以前 ほど の 苦労 を 必要 と し なく なっ て い た から で ある 、 と 解説 し て も いい でしょ う が 、 しかし 、 それ より も 、 肉親 と 他人 、 故郷 と 他郷 、 そこ に は 抜く べから ざる 演技 の 難易 の 差 が 、 どの よう な 天才 にとって も 、 たとい 神 の 子 の イエス にとって も 、 存在 し て いる もの な の で は ない でしょ う か 。 俳優 にとって 、 最も 演じ にくい 場所 は 、 故郷 の 劇場 で あっ て 、 しかも 六 親 眷属 全部 そろっ て 坐っ て いる 一 部屋 の 中 に 在っ て は 、 いか な 名優 も 演技 どころ で は 無くなる の で は ない でしょ う か 。 けれども 自分 は 演じ て 来 まし た 。 しかも 、 それ が 、 かなり の 成功 を 収め た の です 。 それほど の 曲者 が 、 他郷 に 出 て 、 万が一 に も 演じ 損ねる など という 事 は 無い わけ でし た 。 
自分 の 人間 恐怖 は 、 それ は 以前 に まさる と も 劣ら ぬ くらい 烈しく 胸 の 底 で 蠕動 し て い まし た が 、 しかし 、 演技 は 実に のびのび と し て 来 て 、 教室 に あっ て は 、 いつも クラス の 者 たち を 笑わせ 、 教師 も 、 この クラス は 大庭 さえ い ない と 、 とても いい クラス な ん だ が 、 と 言葉 で は 嘆 じ ながら 、 手 で 口 を 覆っ て 笑っ て い まし た 。 自分 は 、 あの 雷 の 如き 蛮声 を 張り上げる 配属 将校 を さえ 、 実に 容易 に 噴き出さ せる 事 が 出来 た の です 。 
もはや 、 自分 の 正体 を 完全 に 隠蔽 し 得 た の で は ある まい か 、 と ほっと しかけ た 矢先 に 、 自分 は 実に 意外 に も 背後 から 突き刺さ れ まし た 。 それ は 、 背後 から 突き刺す 男 の ご たぶん に もれ ず 、 クラス で 最も 貧弱 な 肉体 を し て 、 顔 も 青 ぶ くれ で 、 そうして たしかに 父兄 の お古 と 思わ れる 袖 が 聖徳太子 の 袖 みたい に 長 すぎる 上衣 を 着 て 、 学課 は 少し も 出来 ず 、 教練 や 体操 は いつも 見学 という 白痴 に 似 た 生徒 でし た 。 自分 も さすが に 、 その 生徒 に さえ 警戒 する 必要 は 認め て い なかっ た の でし た 。 
その 日 、 体操 の 時間 に 、 その 生徒 （ 姓 は いま 記憶 し て い ませ ん が 、 名 は 竹 一 と いっ た か と 覚え て い ます ） その 竹一 は 、 れい に 依っ て 見学 、 自分 たち は 鉄棒 の 練習 を さ せ られ て い まし た 。 自分 は 、 わざと 出来る だけ 厳粛 な 顔 を し て 、 鉄棒 めがけ て 、 えい っと 叫ん で 飛び 、 そのまま 幅 飛び の よう に 前方 へ 飛ん で しまっ て 、 砂地 に ドスン と 尻餅 を つき まし た 。 すべて 、 計画 的 な 失敗 でし た 。 果して 皆 の 大笑い に なり 、 自分 も 苦笑 し ながら 起き 上っ て ズボン の 砂 を 払っ て いる と 、 いつ そこ へ 来 て い た の か 、 竹一 が 自分 の 背中 を つつき 、 低い 声 で こう 囁き まし た 。 
「 ワザ 。 ワザ 」 
自分 は 震撼 し まし た 。 ワザ と 失敗 し た という 事 を 、 人 も あろ う に 、 竹 一 に 見破ら れる と は 全く 思い も 掛け ない 事 でし た 。 自分 は 、 世界 が 一瞬 に し て 地獄 の 業火 に 包ま れ て 燃え 上る の を 眼前 に 見る よう な 心地 が し て 、 わ あっ ！ 　 と 叫ん で 発狂 し そう な 気配 を 必死 の 力 で 抑え まし た 。 
それ から の 日々 の 、 自分 の 不安 と 恐怖 。 
表面 は 相 変ら ず 哀しい お 道化 を 演じ て 皆 を 笑わせ て い まし た が 、 ふっと 思わず 重苦しい 溜息 が 出 て 、 何 を し た って すべて 竹 一 に 木 っ 葉 みじん に 見破ら れ て い て 、 そう し て あれ は 、 その うち に きっと 誰 かれ と なく 、 それ を 言いふらし て 歩く に 違い ない の だ 、 と 考える と 、 額 に じっとり 油 汗 が わい て 来 て 、 狂人 みたい に 妙 な 眼 つき で 、 あたり を キョロキョロ むなしく 見廻し たり し まし た 。 できる 事 なら 、 朝 、 昼 、 晩 、 四六時中 、 竹 一 の 傍 から 離れ ず 彼 が 秘密 を 口走ら ない よう に 監視 し て い たい 気持 でし た 。 そうして 、 自分 が 、 彼 に まつわりつい て いる 間 に 、 自分 の お 道化 は 、 所 謂 「 ワザ 」 で は 無く て 、 ほん もの で あっ た という よう 思い込ま せる よう に あらゆる 努力 を 払い 、 あわよくば 、 彼 と 無二 の 親友 に なっ て しまい たい もの だ 、 もし 、 その 事 が 皆 、 不可能 なら 、 もはや 、 彼 の 死 を 祈る より 他 は 無い 、 と さえ 思いつめ まし た 。 しかし 、 さすが に 、 彼 を 殺そ う という 気 だけ は 起り ませ ん でし た 。 自分 は 、 これ まで の 生涯 に 於い て 、 人 に 殺さ れ たい と 願望 し た 事 は 幾度 と なく あり まし た が 、 人 を 殺し たい と 思っ た 事 は 、 いちど も あり ませ ん でし た 。 それ は 、 おそるべき 相手 に 、 かえって 幸福 を 与える だけ の 事 だ と 考え て い た から です 。 
自分 は 、 彼 を 手 な ず ける ため 、 まず 、 顔 に 偽 クリスチャン の よう な 「 優しい 」 媚 笑 を 湛え 、 首 を 三 十 度 くらい 左 に 曲げ て 、 彼 の 小さい 肩 を 軽く 抱き 、 そうして 猫撫で声 に 似 た 甘ったるい 声 で 、 彼 を 自分 の 寄宿 し て いる 家 に 遊び に 来る よう しばしば 誘い まし た が 、 彼 は 、 いつも 、 ぼんやり し た 眼 つき を し て 、 黙っ て い まし た 。 しかし 、 自分 は 、 或 る 日 の 放課後 、 たしか 初夏 の 頃 の 事 でし た 、 夕立ち が 白く 降っ て 、 生徒 たち は 帰宅 に 困っ て い た よう でし た が 、 自分 は 家 が すぐ 近く な ので 平気 で 外 へ 飛び出 そう として 、 ふと 下駄 箱 の かげ に 、 竹一 が しょんぼり 立っ て いる の を 見つけ 、 行こ う 、 傘 を 貸し て あげる 、 と 言い 、 臆 する 竹 一 の 手 を 引っぱっ て 、 一緒 に 夕立ち の 中 を 走り 、 家 に 着い て 、 二 人 の 上衣 を 小母 さん に 乾かし て もらう よう に たのみ 、 竹一 を 二 階 の 自分 の 部屋 に 誘い込む の に 成功 し まし た 。 
その 家 に は 、 五 十 すぎ の 小母 さん と 、 三 十 くらい の 、 眼鏡 を かけ て 、 病身 らしい 背 の 高い 姉 娘 （ この 娘 は 、 いちど よそ へ お 嫁 に 行っ て 、 それから また 、 家 へ 帰っ て いる ひと でし た 。 自分 は 、 この ひと を 、 ここ の 家 の ひと たち に ならっ て 、 アネサ と 呼ん で い まし た ） それ と 、 最近 女学校 を 卒業 し た ばかり らしい 、 セッ ちゃん という 姉 に 似 ず 背 が 低く 丸 顔 の 妹 娘 と 、 三 人 だけ の 家族 で 、 下 の 店 に は 、 文房具 やら 運動 用具 を 少々 並べ て い まし た が 、 主 な 収入 は 、 なくなっ た 主人 が 建て て 残し て 行っ た 五 六 棟 の 長屋 の 家賃 の よう でし た 。 
「 耳 が 痛い 」 
竹一 は 、 立っ た まま で そう 言い まし た 。 
「 雨 に 濡れ たら 、 痛く なっ た よ 」 
自分 が 、 見 て みる と 、 両方 の 耳 が 、 ひどい 耳 だれ でし た 。 膿 が 、 いまにも 耳殻 の 外 に 流れ出よ う と し て い まし た 。 
「 これ は 、 いけ ない 。 痛い だろ う 」 
と 自分 は 大袈裟 に おどろい て 見せ て 、 
「 雨 の 中 を 、 引っぱり 出し たり し て 、 ごめん ね 」 
と 女 の 言葉 みたい な 言葉 を 遣っ て 「 優しく 」 謝り 、 それから 、 下 へ 行っ て 綿 と アルコール を もらっ て 来 て 、 竹一 を 自分 の 膝 を 枕 に し て 寝かせ 、 念入り に 耳 の 掃除 を し て やり まし た 。 竹 一 も 、 さすが に 、 これ が 偽善 の 悪 計 で ある こと に は 気附 か なかっ た よう で 、 
「 お前 は 、 きっと 、 女 に 惚れ られる よ 」 
と 自分 の 膝枕 で 寝 ながら 、 無 智 なお 世辞 を 言っ た くらい でし た 。 
しかし これ は 、 おそらく 、 あの 竹 一 も 意識 し なかっ た ほど の 、 おそろしい 悪魔 の 予言 の よう な もの だっ た という 事 を 、 自分 は 後年 に 到っ て 思い知り まし た 。 惚れる と 言い 、 惚れ られる と 言い 、 その 言葉 は ひどく 下品 で 、 ふざけ て 、 いかにも 、 やにさがっ た ものの 感じ で 、 どんなに 所 謂 「 厳粛 」 の 場 で あっ て も 、 そこ へ この 言葉 が 一言 で も ひょいと 顔 を 出す と 、 みるみる 憂鬱 の 伽藍 が 崩壊 し 、 ただ のっぺらぼう に なっ て しまう よう な 心地 が する もの です けれども 、 惚れ られる つら さ 、 など という 俗語 で なく 、 愛せ られる 不安 、 と でも いう 文学 語 を 用いる と 、 あながち 憂鬱 の 伽藍 を ぶちこわす 事 に は なら ない よう です から 、 奇妙 な もの だ と 思い ます 。 
竹一 が 、 自分 に 耳 だれ の 膿 の 仕 末 を し て もらっ て 、 お前 は 惚れ られる という 馬鹿 な お 世辞 を 言い 、 自分 は その 時 、 ただ 顔 を 赤らめ て 笑っ て 、 何 も 答え ませ ん でし た けれども 、 しかし 、 実は 、 幽か に 思い当る ところ も あっ た の でし た 。 でも 、 「 惚れ られる 」 という よう な 野卑 な 言葉 に 依っ て 生じる やにさがっ た 雰囲気 に対して 、 そう 言わ れる と 、 思い当る ところ も ある 、 など と 書く の は 、 ほとんど 落語 の 若旦那 の せりふ に さえ なら ぬ くらい 、 おろかしい 感懐 を 示す よう な もの で 、 まさか 、 自分 は 、 そんな ふざけ た 、 やにさがっ た 気持 で 、 「 思い当る ところ も あっ た 」 わけ で は 無い の です 。 
自分 に は 、 人間 の 女性 の ほう が 、 男性 より も さらに 数 倍 難解 でし た 。 自分 の 家族 は 、 女性 の ほう が 男性 より も 数 が 多く 、 また 親戚 に も 、 女の子 が たくさん あり 、 また れい の 「 犯罪 」 の 女中 など も い まし て 、 自分 は 幼い 時 から 、 女 と ばかり 遊ん で 育っ た と いっ て も 過言 で は ない と 思っ て い ます が 、 それ は 、 また 、 しかし 、 実に 、 薄氷 を 踏む 思い で 、 その 女 の ひと たち と 附 合っ て 来 た の です 。 ほとんど 、 まるで 見当 が 、 つか ない の です 。 五里霧中 で 、 そうして 時たま 、 虎の尾 を 踏む 失敗 を し て 、 ひどい 痛手 を 負い 、 それ が また 、 男性 から 受ける 笞 と ちがっ て 、 内 出血 みたい に 極度 に 不快 に 内攻 し て 、 なかなか 治癒 し 難い 傷 でし た 。 
女 は 引き寄せ て 、 つっ放す 、 或いは また 、 女 は 、 人 の いる ところ で は 自分 を さげすみ 、 邪慳 に し 、 誰 も い なく なる と 、 ひしと 抱きしめる 、 女 は 死ん だ よう に 深く 眠る 、 女 は 眠る ため に 生き て いる の で は ない かしら 、 その他 、 女 に 就い て の さまざま の 観察 を 、 すでに 自分 は 、 幼年 時代 から 得 て い た の です が 、 同じ 人類 の よう で あり ながら 、 男 と は また 、 全く 異 っ た 生きもの の よう な 感じ で 、 そう し て また 、 この 不可解 で 油断 の なら ぬ 生きもの は 、 奇妙 に 自分 を かまう の でし た 。 「 惚れ られる 」 なんて いう 言葉 も 、 また 「 好か れる 」 という 言葉 も 、 自分 の 場合 に は ちっとも 、 ふさわしく なく 、 「 かまわ れる 」 と でも 言っ た ほう が 、 まだしも 実状 の 説明 に 適し て いる かも 知れ ませ ん 。 
女 は 、 男 より も 更に 、 道化 に は 、 くつろぐ よう でし た 。 自分 が お 道化 を 演じ 、 男 は さすが に いつ まで も ゲラゲラ 笑っ て も い ませ ん し 、 それ に 自分 も 男 の ひと に対し 、 調子 に 乗っ て あまり お 道化 を 演じ すぎる と 失敗 する という 事 を 知っ て い まし た ので 、 必ず 適当 の ところ で 切り上げる よう に 心掛け て い まし た が 、 女 は 適度 という 事 を 知ら ず 、 いつ まで も い つ まで も 、 自分 に お 道化 を 要求 し 、 自分 は その 限り ない アンコール に 応じ て 、 へとへと に なる の でし た 。 実に 、 よく 笑う の です 。 いったい に 、 女 は 、 男 より も 快楽 を よけい に 頬張る 事 が 出来る よう です 。 
自分 が 中学 時代 に 世話 に なっ た その 家 の 姉 娘 も 、 妹 娘 も 、 ひま さえ あれ ば 、 二 階 の 自分 の 部屋 に やって来 て 、 自分 は その 度 毎 に 飛び 上ら ん ばかり に ぎょっと し て 、 そうして 、 ひたすら おびえ 、 
「 御 勉強 ？ 」 
「 いいえ 」 
と 微笑 し て 本 を 閉じ 、 
「 きょう ね 、 学校 で ね 、 コンボウ という 地理 の 先生 が ね 」 
と するする 口 から 流れ出る もの は 、 心 に も 無い 滑稽 噺 でし た 。 
「 葉 ちゃん 、 眼鏡 を かけ て ごらん 」 
或 る 晩 、 妹 娘 の セッ ちゃん が 、 アネサ と 一緒 に 自分 の 部屋 へ 遊び に 来 て 、 さんざん 自分 に お 道化 を 演じ させ た 揚句 の 果 に 、 そんな 事 を 言い出し まし た 。 
「 なぜ ？ 」 
「 いい から 、 かけ て ごらん 。 アネサ の 眼鏡 を 借り なさい 」 
いつ でも 、 こんな 乱暴 な 命令 口調 で 言う の でし た 。 道化師 は 、 素直 に アネサ の 眼鏡 を かけ まし た 。 とたんに 、 二 人 の 娘 は 、 笑いころげ まし た 。 
「 そっくり 。 ロイド に 、 そっくり 」 
当時 、 ハロルド・ロイド とかいう 外国 の 映画 の 喜劇 役者 が 、 日本 で 人気 が あり まし た 。 
自分 は 立っ て 片手 を 挙げ 、 
「 諸君 」 
と 言い 、 
「 この たび 、 日本 の ファン の 皆様 がた に 、 … … 」 
と 一場 の 挨拶 を 試み 、 さらに 大笑い さ せ て 、 それから 、 ロイド の 映画 が その まち の 劇場 に 来る たび 毎 に 見 に 行っ て 、 ひそか に 彼 の 表情 など を 研究 し まし た 。 
また 、 或 る 秋 の 夜 、 自分 が 寝 ながら 本 を 読ん で いる と 、 アネサ が 鳥 の よう に 素早く 部屋 へ はいっ て 来 て 、 いきなり 自分 の 掛蒲団 の 上 に 倒れ て 泣き 、 
「 葉 ちゃん が 、 あたし を 助け て くれる の だ わ ね 。 そう だ わ ね 。 こんな 家 、 一緒 に 出 て しまっ た ほう が いい の だ わ 。 助け て ね 。 助け て 」 
など と 、 はげしい 事 を 口走っ て は 、 また 泣く の でし た 。 けれども 、 自分 に は 、 女 から 、 こんな 態度 を 見せつけ られる の は 、 これ が 最初 で は あり ませ ん でし た ので 、 アネサ の 過激 な 言葉 に も 、 さして 驚か ず 、 かえって その 陳腐 、 無 内容 に 興 が 覚め た 心地 で 、 そっと 蒲団 から 脱 け 出し 、 机 の 上 の 柿 を むい て 、 その 一 きれ を アネサ に 手渡し て やり まし た 。 する と 、 アネサ は 、 しゃくり上げ ながら その 柿 を 食べ 、 
「 何 か 面白い 本 が 無い ？ 　 貸し て よ 」 
と 言い まし た 。 
自分 は 漱石 の 「 吾輩 は 猫 で ある 」 という 本 を 、 本棚 から 選ん で あげ まし た 。 
「 ごちそうさま 」 
アネサ は 、 恥ずかし そう に 笑っ て 部屋 から 出 て 行き まし た が 、 この アネサ に 限ら ず 、 いったい 女 は 、 どんな 気持 で 生き て いる の か を 考える 事 は 、 自分 にとって 、 蚯蚓 の 思い を さぐる より も 、 ややこしく 、 わずらわしく 、 薄 気味 の 悪い もの に 感ぜ られ て い まし た 。 ただ 、 自分 は 、 女 が あんなに 急 に 泣き 出し たり し た 場合 、 何 か 甘い もの を 手渡し て やる と 、 それ を 食べ て 機嫌 を 直す という 事 だけ は 、 幼い 時 から 、 自分 の 経験 に 依っ て 知っ て い まし た 。 
また 、 妹 娘 の セッ ちゃん は 、 その 友だち まで 自分 の 部屋 に 連れ て 来 て 、 自分 が れい に 依っ て 公平 に 皆 を 笑わせ 、 友だち が 帰る と 、 セッ ちゃん は 、 必ず その 友だち の 悪口 を 言う の でし た 。 あの ひと は 不良 少女 だ から 、 気 を つける よう に 、 と きまって 言う の でし た 。 そん なら 、 わざわざ 連れ て 来 なけれ ば 、 よい のに 、 おかげ で 自分 の 部屋 の 来客 の 、 ほとんど 全部 が 女 、 という 事 に なっ て しまい まし た 。 
しかし 、 それ は 、 竹 一 の お 世辞 の 「 惚れ られる 」 事 の 実現 で は 未だ 決して 無かっ た の でし た 。 つまり 、 自分 は 、 日本 の 東北 の ハロルド・ロイド に 過ぎ なかっ た の です 。 竹 一 の 無 智 なお 世辞 が 、 いまわしい 予言 として 、 なま なま と 生き て 来 て 、 不吉 な 形 貌 を 呈する よう に なっ た の は 、 更に それ から 、 数 年 経っ た 後 の 事 で あり まし た 。 
竹一 は 、 また 、 自分 に もう 一つ 、 重大 な 贈り物 を し て い まし た 。 
「 お化け の 絵 だ よ 」 
いつか 竹一 が 、 自分 の 二 階 へ 遊び に 来 た 時 、 ご 持参 の 、 一 枚 の 原色 版 の 口絵 を 得意 そう に 自分 に 見せ て 、 そう 説明 し まし た 。 
おや ？ 　 と 思い まし た 。 その 瞬間 、 自分 の 落ち行く 道 が 決定 せら れ た よう に 、 後年 に 到っ て 、 そんな 気 が し て なり ませ ん 。 自分 は 、 知っ て い まし た 。 それ は 、 ゴッホ の 例 の 自画 像 に 過ぎ ない の を 知っ て い まし た 。 自分 たち の 少年 の 頃 に は 、 日本 で は フランス の 所 謂 印象派 の 画 が 大 流行 し て い て 、 洋画 鑑賞 の 第一歩 を 、 たいてい この あたり から はじめ た もの で 、 ゴッホ 、 ゴーギャン 、 セザンヌ 、 ルナアル など という ひと の 絵 は 、 田舎 の 中学生 で も 、 たいてい その 写真 版 を 見 て 知っ て い た の でし た 。 自分 など も 、 ゴッホ の 原色 版 を かなり たくさん 見 て 、 タッチ の 面白 さ 、 色彩 の 鮮やか さ に 興趣 を 覚え て は い た の です が 、 しかし 、 お化け の 絵 、 だ と は 、 いちど も 考え た 事 が 無かっ た の でし た 。 
「 では 、 こんな の は 、 どう かしら 。 やっぱり 、 お化け かしら 」 
自分 は 本棚 から 、 モジリアニ の 画集 を 出し 、 焼け た 赤銅 の よう な 肌 の 、 れい の 裸婦 の 像 を 竹 一 に 見せ まし た 。 
「 すげ え なあ 」 
竹一 は 眼 を 丸く し て 感嘆 し まし た 。 
「 地獄 の 馬 みたい 」 
「 やっぱり 、 お化け か ね 」 
「 おれ も 、 こんな お化け の 絵 が かき たい よ 」 
あまりに 人間 を 恐怖 し て いる 人 たち は 、 かえって 、 もっと もっと 、 おそろしい 妖怪 を 確実 に この 眼 で 見 たい と 願望 する に 到る 心理 、 神経質 な 、 もの に おびえ 易い 人 ほど 、 暴風雨 の 更に 強から ん 事 を 祈る 心理 、 ああ 、 この 一群 の 画家 たち は 、 人間 という 化け物 に 傷め つけ られ 、 おびやかさ れ た 揚句 の 果 、 ついに 幻影 を 信じ 、 白昼 の 自然 の 中 に 、 ありあり と 妖怪 を 見 た の だ 、 しかも 彼等 は 、 それ を 道化 など で ごまかさ ず 、 見え た まま の 表現 に 努力 し た の だ 、 竹一 の 言う よう に 、 敢然と 「 お化け の 絵 」 を かい て しまっ た の だ 、 ここ に 将来 の 自分 の 、 仲間 が いる 、 と 自分 は 、 涙 が 出 た ほど に 興奮 し 、 
「 僕 も 画く よ 。 お化け の 絵 を 画く よ 。 地獄 の 馬 を 、 画く よ 」 
と 、 なぜ だ か 、 ひどく 声 を ひそめ て 、 竹 一 に 言っ た の でし た 。 
自分 は 、 小学校 の 頃 から 、 絵 は かく の も 、 見る の も 好き でし た 。 けれども 、 自分 の かい た 絵 は 、 自分 の 綴り 方 ほど に は 、 周囲 の 評判 が 、 よく あり ませ ん でし た 。 自分 は 、 どだい 人間 の 言葉 を 一向に 信用 し て い ませ ん でし た ので 、 綴り 方 など は 、 自分 にとって 、 ただ お 道化 の 御 挨拶 みたい な もの で 、 小学校 、 中学校 、 と 続い て 先生 たち を 狂喜 さ せ て 来 まし た が 、 しかし 、 自分 で は 、 さっぱり 面白く なく 、 絵 だけ は 、 （ 漫画 など は 別 です けれども ） その 対象 の 表現 に 、 幼い 我流 ながら 、 多少 の 苦心 を 払っ て い まし た 。 学校 の 図画 の お手本 は つまらない し 、 先生 の 絵 は 下手くそ だ し 、 自分 は 、 全く 出鱈目 に さまざま の 表現 法 を 自分 で 工夫 し て 試み なけれ ば なら ない の でし た 。 中学校 へ はいっ て 、 自分 は 油絵 の 道具 も 一 揃 い 持っ て い まし た が 、 しかし 、 その タッチ の 手本 を 、 印象派 の 画風 に 求め て も 、 自分 の 画い た もの は 、 まるで 千代紙 細工 の よう に のっぺり し て 、 もの に なり そう も あり ませ ん でし た 。 けれども 自分 は 、 竹 一 の 言葉 に 依っ て 、 自分 の それ まで の 絵画 に対する 心構え が 、 まるで 間違っ て いた事 に 気 が 附き まし た 。 美しい と 感じ た もの を 、 そのまま 美しく 表現 しよ う と 努力 する 甘 さ 、 おろかし さ 。 マイスター たち は 、 何 で も 無い もの を 、 主観 に 依っ て 美しく 創造 し 、 或いは 醜い もの に 嘔吐 を もよおし ながら も 、 それ に対する 興味 を 隠さ ず 、 表現 の よろこび に ひたっ て いる 、 つまり 、 人 の 思惑 に 少し も たよっ て い ない らしい という 、 画 法 の プリミチヴ な 虎の巻 を 、 竹 一 から 、 さずけ られ て 、 れい の 女 の 来客 たち に は 隠し て 、 少し ずつ 、 自画 像 の 制作 に 取りかかっ て み まし た 。 
自分 で も 、 ぎょっと し た ほど 、 陰惨 な 絵 が 出来 上り まし た 。 しかし 、 これ こそ 胸底 に ひた隠し に 隠し て いる 自分 の 正体 な の だ 、 お もて は 陽気 に 笑い 、 また 人 を 笑わせ て いる けれども 、 実は 、 こんな 陰鬱 な 心 を 自分 は 持っ て いる の だ 、 仕方 が 無い 、 と ひそか に 肯定 し 、 けれども その 絵 は 、 竹 一 以外 の 人 に は 、 さすが に 誰 に も 見せ ませ ん でし た 。 自分 の お 道化 の 底 の 陰惨 を 見破ら れ 、 急 に ケチ くさく 警戒 せ られる の も いや でし た し 、 また 、 これ を 自分 の 正体 と も 気づか ず 、 やっぱり 新 趣向 の お 道化 と 見なさ れ 、 大笑い の 種 に せら れる かも 知れ ぬ という 懸念 も あり 、 それ は 何 より も つらい 事 でし た ので 、 その 絵 は すぐ に 押入れ の 奥深く しまい 込み まし た 。 
また 、 学校 の 図画 の 時間 に も 、 自分 は あの 「 お化け 式 手法 」 は 秘め て 、 いま まで どおり の 美しい もの を 美しく 画く 式 の 凡庸 な タッチ で 画い て い まし た 。 
自分 は 竹 一 に だけ は 、 前 から 自分 の 傷み 易い 神経 を 平気 で 見せ て い まし た し 、 こんど の 自画 像 も 安心 し て 竹 一 に 見せ 、 たいへん ほめ られ 、 さらに 二 枚 三 枚 と 、 お化け の 絵 を 画き つづけ 、 竹 一 から もう 一つ の 、 
「 お前 は 、 偉い 絵 画き に なる 」 
という 予言 を 得 た の でし た 。 
惚れ られる という 予言 と 、 偉い 絵 画き に なる という 予言 と 、 この 二つ の 予言 を 馬鹿 の 竹 一 に 依っ て 額 に 刻 印せ られ て 、 やがて 、 自分 は 東京 へ 出 て 来 まし た 。 
自分 は 、 美術 学校 に はいり たかっ た の です が 、 父 は 、 前 から 自分 を 高等 学校 に いれ て 、 末 は 官吏 に する つもり で 、 自分 に も それ を 言い渡し て あっ た ので 、 口 応え 一つ 出来 ない たち の 自分 は 、 ぼんやり それ に 従っ た の でし た 。 四 年 から 受け て 見よ 、 と 言わ れ た ので 、 自分 も 桜 と 海 の 中学 は もう いい加減 あき て い まし た し 、 五 年 に 進級 せ ず 、 四 年 修了 の まま で 、 東京 の 高等 学校 に 受験 し て 合格 し 、 すぐ に 寮 生活 に はいり まし た が 、 その 不潔 と 粗暴 に 辟易 し て 、 道化 どころ で は なく 、 医師 に 肺浸潤 の 診断 書 を 書い て もらい 、 寮 から 出 て 、 上野桜木 町 の 父 の 別荘 に 移り まし た 。 自分 に は 、 団体 生活 という もの が 、 どうしても 出来 ませ ん 。 それに また 、 青春 の 感激 だ とか 、 若人 の 誇り だ とかいう 言葉 は 、 聞い て 寒気 が し て 来 て 、 とても 、 あの 、 ハイスクール ・ スピリット とかいう もの に は 、 つい て 行け なかっ た の です 。 教室 も 寮 も 、 ゆがめ られ た 性慾 の 、 はきだめ みたい な 気 さえ し て 、 自分 の 完璧 に 近い お 道化 も 、 そこ で は 何 の 役 に も 立ち ませ ん でし た 。 
父 は 議会 の 無い 時 は 、 月 に 一 週間 か 二 週間 しか その 家 に 滞在 し て い ませ ん でし た ので 、 父 の 留守 の 時 は 、 かなり 広い その 家 に 、 別荘 番 の 老 夫婦 と 自分 と 三 人 だけ で 、 自分 は 、 ちょいちょい 学校 を 休ん で 、 さりとて 東京 見物 など を する 気 も 起ら ず （ 自分 は とうとう 、 明治 神宮 も 、 楠 正成 の 銅像 も 、 泉岳寺 の 四 十 七 士 の 墓 も 見 ず に 終り そう です ） 家 で 一 日 中 、 本 を 読ん だり 、 絵 を かい たり し て い まし た 。 父 が 上京 し て 来る と 、 自分 は 、 毎朝 そそくさ と 登校 する の でし た が 、 しかし 、 本郷 千駄木 町 の 洋画 家 、 安田 新太郎 氏 の 画 塾 に 行き 、 三 時間 も 四 時間 も 、 デッサン の 練習 を し て いる 事 も あっ た の です 。 高等 学校 の 寮 から 脱 け たら 、 学校 の 授業 に 出 て も 、 自分 は まるで 聴講生 みたい な 特別 の 位置 に いる よう な 、 それ は 自分 の ひがみ かも 知れ なかっ た の です が 、 何とも 自分 自身 で 白々しい 気持 が し て 来 て 、 いっそう 学校 へ 行く の が 、 おっくう に なっ た の でし た 。 自分 に は 、 小学校 、 中学校 、 高等 学校 を通じて 、 ついに 愛 校 心 という もの が 理解 でき ず に 終り まし た 。 校歌 など という もの も 、 いちど も 覚えよ う と し た 事 が あり ませ ん 。 
自分 は 、 やがて 画 塾 で 、 或 る 画 学生 から 、 酒 と 煙草 と 淫売 婦 と 質屋 と 左翼 思想 と を 知らさ れ まし た 。 妙 な 取合せ でし た が 、 しかし 、 それ は 事実 でし た 。 
その 画 学生 は 、 堀木 正雄 と いっ て 、 東京 の 下町 に 生れ 、 自分 より 六つ 年長 者 で 、 私立 の 美術 学校 を 卒業 し て 、 家 に アトリエ が 無い ので 、 この 画 塾 に 通い 、 洋画 の 勉強 を つづけ て いる の だ そう です 。 
「 五 円 、 貸し て くれ ない か 」 
お互い ただ 顔 を 見知っ て いる だけ で 、 それ まで 一言 も 話 合っ た 事 が 無かっ た の です 。 自分 は 、 へどもど し て 五 円 差し出し まし た 。 
「 よし 、 飲も う 。 おれ が 、 お前 に おごる ん だ 。 よ か チゴ じゃ のう 」 
自分 は 拒否 し 切れ ず 、 その 画 塾 の 近く の 、 蓬莱 町 の カフエ に 引っぱっ て 行か れ た の が 、 彼 と の 交友 の はじまり でし た 。 
「 前 から 、 お前 に 眼 を つけ て い た ん だ 。 それ それ 、 その はにかむ よう な 微笑 、 それ が 見込み の ある 芸術 家 特有 の 表情 な ん だ 。 お 近づき の しるし に 、 乾杯 ！ 　 キヌ さん 、 こいつ は 美男 子 だろ う ？ 　 惚れ ちゃ いけ ない ぜ 。 こいつ が 塾 へ 来 た おかげ で 、 残念 ながら おれ は 、 第 二 番 の 美男 子 という 事 に なっ た 」 
堀木 は 、 色 が 浅黒く 端正 な 顔 を し て い て 、 画 学生 に は 珍 らしく 、 ちゃんと し た 脊広 を 着 て 、 ネクタイ の 好み も 地味 で 、 そうして 頭髪 も ポマード を つけ て まん中 から ぺったり と わけ て い まし た 。 
自分 は 馴れ ぬ 場所 で も あり 、 ただ もう おそろしく 、 腕 を 組ん だり ほどい たり し て 、 それ こそ 、 はにかむ よう な 微笑 ばかり し て い まし た が 、 ビイル を 二 、 三 杯 飲ん で いる うち に 、 妙 に 解放 せら れ た よう な 軽 さ を 感じ て 来 た の です 。 
「 僕 は 、 美術 学校 に はいろ う と 思っ て い た ん です けど 、 … … 」 
「 いや 、 つまら ん 。 あんな ところ は 、 つまら ん 。 学校 は 、 つまら ん 。 われ ら の 教師 は 、 自然 の 中 に あり ！ 　 自然 に対する パアトス ！ 」 
しかし 、 自分 は 、 彼 の 言う 事 に 一向に 敬意 を 感じ ませ ん でし た 。 馬鹿 な ひと だ 、 絵 も 下手 に ちがい ない 、 しかし 、 遊ぶ の に は 、 いい 相手 かも 知れ ない と 考え まし た 。 つまり 、 自分 は その 時 、 生れ て はじめ て 、 ほん もの の 都会 の 与太者 を 見 た の でし た 。 それ は 、 自分 と 形 は 違っ て い て も 、 やはり 、 この世 の 人間 の 営み から 完全 に 遊離 し て しまっ て 、 戸 迷い し て いる 点 に 於い て だけ は 、 たしかに 同類 な の でし た 。 そうして 、 彼 は その お 道化 を 意識 せ ず に 行い 、 しかも 、 その お 道化 の 悲惨 に 全く 気がつい て い ない の が 、 自分 と 本質 的 に 異色 の ところ でし た 。 
ただ 遊ぶ だけ だ 、 遊び の 相手 として 附 合っ て いる だけ だ 、 と つねに 彼 を 軽蔑 し 、 時には 彼 と の 交友 を 恥ずかしく さえ 思い ながら 、 彼 と 連れ立っ て 歩い て いる うち に 、 結局 、 自分 は 、 この 男 に さえ 打ち破ら れ まし た 。 
しかし 、 はじめ は 、 この 男 を 好人物 、 まれ に 見る 好人物 と ばかり 思い込み 、 さすが 人間 恐怖 の 自分 も 全く 油断 を し て 、 東京 の よい 案内 者 が 出来 た 、 くらい に 思っ て い まし た 。 自分 は 、 実は 、 ひとり で は 、 電車 に 乗る と 車掌 が おそろしく 、 歌舞伎座 へ はいり たく て も 、 あの 正面 玄関 の 緋 の 絨緞 が 敷か れ て ある 階段 の 両側 に 並ん で 立っ て いる 案内 嬢 たち が おそろしく 、 レストラン へ はいる と 、 自分 の 背後 に ひっそり 立っ て 、 皿 の あく の を 待っ て いる 給仕 の ボーイ が おそろしく 、 殊 に も 勘定 を 払う 時 、 ああ 、 ぎごち ない 自分 の 手つき 、 自分 は 買い物 を し て お金 を 手渡す 時 に は 、 吝嗇 ゆえ で なく 、 あまり の 緊張 、 あまり の 恥ずかし さ 、 あまり の 不安 、 恐怖 に 、 くらくら 目まい し て 、 世界 が 真暗 に なり 、 ほとんど 半 狂乱 の 気持 に なっ て しまっ て 、 値切る どころか 、 お釣 を 受け取る の を 忘れる ばかり で なく 、 買っ た 品物 を 持ち帰る の を 忘れ た 事 さえ 、 しばしば あっ た ほど な ので 、 とても 、 ひとり で 東京 の まち を 歩け ず 、 それで 仕方 なく 、 一 日 一ぱい 家 の 中 で 、 ごろごろ し て い た という 内情 も あっ た の でし た 。 
それ が 、 堀木 に 財布 を 渡し て 一緒 に 歩く と 、 堀木 は 大いに 値切っ て 、 しかも 遊び 上手 という の か 、 わずか な お金 で 最大 の 効果 の ある よう な 支払い 振り を 発揮 し 、 また 、 高い 円タク は 敬遠 し て 、 電車 、 バス 、 ポンポン 蒸気 など 、 それぞれ 利用 し 分け て 、 最短 時間 で 目的 地 へ 着く という 手腕 を も 示し 、 淫売 婦 の ところ から 朝 帰る 途中 に は 、 何 々 という 料亭 に 立ち寄っ て 朝風呂 へ はいり 、 湯豆腐 で 軽く お 酒 を 飲む の が 、 安い 割 に 、 ぜいたく な 気分 に なれる もの だ と 実地 教育 を し て くれ たり 、 その他 、 屋台 の 牛 めし 焼 とり の 安価 に し て 滋養 に 富む もの たる 事 を 説き 、 酔い の 早く 発する の は 、 電気 ブラン の 右 に 出る もの は ない と 保証 し 、 とにかく その 勘定 に 就い て は 自分 に 、 一つ も 不安 、 恐怖 を 覚え させ た 事 が あり ませ ん でし た 。 
さらに また 、 堀木 と 附 合っ て 救わ れる の は 、 堀木 が 聞き手 の 思惑 など を てんで 無視 し て 、 その 所 謂 情熱 の 噴出 する が まま に 、 （ 或いは 、 情熱 と は 、 相手 の 立場 を 無視 する 事 かも 知れ ませ ん が ） 四 六 時 中 、 くだらない おしゃべり を 続け 、 あの 、 二 人 で 歩い て 疲れ 、 気まずい 沈黙 に おちいる 危懼 が 、 全く 無い という 事 でし た 。 人 に 接し 、 あの おそろしい 沈黙 が その 場 に あらわれる 事 を 警戒 し て 、 もともと 口 の 重い 自分 が 、 ここ を 先途 と 必死 の お 道化 を 言っ て 来 た もの です が 、 いま この 堀木 の 馬鹿 が 、 意識 せ ず に 、 その お 道化 役 を みずから すすん で やっ て くれ て いる ので 、 自分 は 、 返事 も ろくに せ ず に 、 ただ 聞き流し 、 時折 、 まさか 、 など と 言っ て 笑っ て おれ ば 、 いい の でし た 。 
酒 、 煙草 、 淫売 婦 、 それ は 皆 、 人間 恐怖 を 、 たとい 一時 でも 、 まぎらす 事 の 出来る ずいぶん よい 手段 で ある 事 が 、 やがて 自分 に も わかっ て 来 まし た 。 それら の 手段 を 求める ため に は 、 自分 の 持ち物 全部 を 売却 し て も 悔い ない 気持 さえ 、 抱く よう に なり まし た 。 
自分 に は 、 淫売 婦 という もの が 、 人間 で も 、 女性 で も ない 、 白痴 か 狂人 の よう に 見え 、 その ふところ の 中 で 、 自分 は かえって 全く 安心 し て 、 ぐっすり 眠る 事 が 出来 まし た 。 みんな 、 哀しい くらい 、 実に みじん も 慾 という もの が 無い の でし た 。 そうして 、 自分 に 、 同類 の 親和 感 と でも いっ た よう な もの を 覚える の か 、 自分 は 、 いつも 、 その 淫売 婦 たち から 、 窮屈 で ない 程度 の 自然 の 好意 を 示さ れ まし た 。 何 の 打算 も 無い 好意 、 押し売り で は 無い 好意 、 二度と 来 ない かも 知れ ぬ ひと へ の 好意 、 自分 に は 、 その 白痴 か 狂人 の 淫売 婦 たち に 、 マリヤ の 円光 を 現実 に 見 た 夜 も あっ た の です 。 
しかし 、 自分 は 、 人間 へ の 恐怖 から のがれ 、 幽か な 一夜 の 休養 を 求める ため に 、 そこ へ 行き 、 それ こそ 自分 と 「 同類 」 の 淫売 婦 たち と 遊ん で いる うち に 、 いつのまに やら 無意識 の 、 或 る いまわしい 雰囲気 を 身辺 に いつも ただよわ せる よう に なっ た 様子 で 、 これ は 自分 に も 全く 思い設け なかっ た 所 謂 「 おまけ の 附録 」 でし た が 、 次第に その 「 附録 」 が 、 鮮明 に 表面 に 浮き 上っ て 来 て 、 堀木 に それ を 指摘 せら れ 、 愕然 として 、 そうして 、 いや な 気 が 致し まし た 。 はた から 見 て 、 俗 な 言い方 を すれ ば 、 自分 は 、 淫売 婦 に 依っ て 女 の 修行 を し て 、 しかも 、 最近 めっきり 腕 を あげ 、 女 の 修行 は 、 淫売 婦 に 依る の が 一 ばん 厳しく 、 また それだけに 効果 の あがる もの だ そう で 、 既に 自分 に は 、 あの 、 「 女 達者 」 という 匂い が つきまとい 、 女性 は 、 （ 淫売 婦 に 限ら ず ） 本能 に 依っ て それ を 嗅ぎ当て 寄り添っ て 来る 、 その よう な 、 卑猥 で 不名誉 な 雰囲気 を 、 「 おまけ の 附録 」 と し て もらっ て 、 そうして その ほう が 、 自分 の 休養 など より も 、 ひどく 目立っ て しまっ て いる らしい の でし た 。 
堀木 は それ を 半分 は お 世辞 で 言っ た の でしょ う が 、 しかし 、 自分 に も 、 重苦しく 思い当る 事 が あり 、 たとえば 、 喫茶店 の 女 から 稚拙 な 手紙 を もらっ た 覚え も ある し 、 桜木 町 の 家 の 隣り の 将軍 の はたち くらい の 娘 が 、 毎朝 、 自分 の 登校 の 時刻 に は 、 用 も 無 さ そう な のに 、 ご 自分 の 家 の 門 を 薄化粧 し て 出 たり は いっ たり し て い た し 、 牛肉 を 食い に 行く と 、 自分 が 黙っ て い て も 、 そこ の 女中 が 、 … … また 、 いつも 買いつけ の 煙草 屋 の 娘 から 手渡さ れ た 煙草 の 箱 の 中 に 、 … … また 、 歌舞伎 を 見 に 行っ て 隣り の 席 の ひと に 、 … … また 、 深夜 の 市電 で 自分 が 酔っ て 眠っ て い て 、 … … また 、 思いがけなく 故郷 の 親戚 の 娘 から 、 思いつめ た よう な 手紙 が 来 て 、 … … また 、 誰 か わから ぬ 娘 が 、 自分 の 留守 中 に お 手製 らしい 人形 を 、 … … 自分 が 極度 に 消極 的 な ので 、 いずれ も 、 それ っきり の 話 で 、 ただ 断片 、 それ 以上 の 進展 は 一つ も あり ませ ん でし た が 、 何 か 女 に 夢 を 見 させる 雰囲気 が 、 自分 の どこ か に つきまとっ て いる 事 は 、 それ は 、 のろけ だの 何 だ の という いい加減 な 冗談 で なく 、 否定 でき ない の で あり まし た 。 自分 は 、 それ を 堀木 ごとき 者 に 指摘 せら れ 、 屈辱 に 似 た 苦 さ を 感ずる と共に 、 淫売 婦 と 遊ぶ 事 に も 、 にわかに 興 が 覚め まし た 。 
堀木 は 、 また 、 その 見栄坊 の モダニティ から 、 （ 堀木 の 場合 、 それ 以外 の 理由 は 、 自分 に は 今 もっ て 考え られ ませ ん の です が ） 或 る 日 、 自分 を 共産 主義 の 読書 会 とかいう （ Ｒ ・ Ｓ とか いっ て い た か 、 記憶 が はっきり 致し ませ ん ） そんな 、 秘密 の 研究 会 に 連れ て 行き まし た 。 堀木 など という 人物 にとって は 、 共産 主義 の 秘密 会合 も 、 れい の 「 東京 案内 」 の 一つ くらい の もの だっ た の かも 知れ ませ ん 。 自分 は 所 謂 「 同志 」 に 紹介 せら れ 、 パンフレット を 一部 買わさ れ 、 そうして 上座 の ひどい 醜い 顔 の 青年 から 、 マルクス 経済 学 の 講義 を 受け まし た 。 しかし 、 自分 に は 、 それ は わかり 切っ て いる 事 の よう に 思わ れ まし た 。 それ は 、 そう に 違い ない だろ う けれども 、 人間 の 心 に は 、 もっと わけ の わから ない 、 おそろしい もの が ある 。 慾 、 と 言っ て も 、 言い たり ない 、 ヴァニティ 、 と 言っ て も 、 言い たり ない 、 色 と 慾 、 とこう 二つ 並べ て も 、 言い たり ない 、 何だか 自分 に も わから ぬ が 、 人間 の 世 の 底 に 、 経済 だけ で ない 、 へん に 怪談 じみ た もの が ある よう な 気 が し て 、 その 怪談 に おびえ 切っ て いる 自分 に は 、 所 謂 唯物 論 を 、 水 の 低き に 流れる よう に 自然 に 肯定 し ながら も 、 しかし 、 それ に 依っ て 、 人間 に対する 恐怖 から 解放 せら れ 、 青葉 に 向っ て 眼 を ひらき 、 希望 の よろこび を 感ずる など という 事 は 出来 ない の でし た 。 けれども 、 自分 は 、 いちど も 欠席 せ ず に 、 その Ｒ ・ Ｓ （ と 言っ た か と 思い ます が 、 間違っ て いる かも 知れ ませ ん ） なる もの に 出席 し 、 「 同志 」 たち が 、 いや に 一大事 の 如く 、 こわばっ た 顔 を し て 、 一 プラス 一 は 二 、 という よう な 、 ほとんど 初等 の 算術 めい た 理論 の 研究 に ふけっ て いる の が 滑稽 に 見え て たまら ず 、 れい の 自分 の お 道化 で 、 会合 を くつろが せる 事 に 努め 、 その ため か 、 次第に 研究 会 の 窮屈 な 気配 も ほぐれ 、 自分 は その 会合 に 無く て かなわ ぬ 人気 者 という 形 に さえ なっ て 来 た よう でし た 。 この 、 単純 そう な 人 たち は 、 自分 の 事 を 、 やはり この 人 たち と 同じ 様 に 単純 で 、 そうして 、 楽天的 な おどけ 者 の 「 同志 」 くらい に 考え て い た かも 知れ ませ ん が 、 もし 、 そう だっ たら 、 自分 は 、 この 人 たち を 一 から 十 まで 、 あざむい て い た わけ です 。 自分 は 、 同志 で は 無かっ た ん です 。 けれども 、 その 会合 に 、 いつも 欠かさ ず 出席 し て 、 皆 に お 道化 の サーヴィス を し て 来 まし た 。 
好き だっ た から な の です 。 自分 に は 、 その 人 たち が 、 気にいっ て い た から な の です 。 しかし 、 それ は 必ずしも 、 マルクス に 依っ て 結ば れ た 親愛 感 で は 無かっ た の です 。 
非合法 。 自分 に は 、 それ が 幽か に 楽しかっ た の です 。 むしろ 、 居心地 が よかっ た の です 。 世の中 の 合法 という もの の ほう が 、 かえって おそろしく 、 （ それ に は 、 底 知れ ず 強い もの が 予感 せら れ ます ） その からくり が 不可解 で 、 とても その 窓 の 無い 、 底冷え の する 部屋 に は 坐っ て おら れ ず 、 外 は 非合法 の 海 で あっ て も 、 それ に 飛び込ん で 泳い で 、 やがて 死に 到る ほう が 、 自分 に は 、 いっそ 気楽 の よう でし た 。 
日蔭 者 、 という 言葉 が あり ます 。 人間 の 世 に 於い て 、 みじめ な 、 敗者 、 悪徳 者 を 指 差し ていう 言葉 の よう です が 、 自分 は 、 自分 を 生れ た 時 から の 日蔭 者 の よう な 気 が し て い て 、 世間 から 、 あれ は 日蔭 者 だ と 指 差さ れ て いる 程 の ひと と 逢う と 、 自分 は 、 必ず 、 優しい 心 に なる の です 。 そうして 、 その 自分 の 「 優しい 心 」 は 、 自身 で うっとり する くらい 優しい 心 でし た 。 
また 、 犯人 意識 、 という 言葉 も あり ます 。 自分 は 、 この 人間 の 世の中 に 於い て 、 一生 その 意識 に 苦しめ られ ながら も 、 しかし 、 それ は 自分 の 糟糠 の 妻 の 如き 好 伴侶 で 、 そいつ と 二 人 きり で 侘び しく 遊び たわむれ て いる という の も 、 自分 の 生き て いる 姿勢 の 一つ だっ た かも 知れ ない し 、 また 、 俗 に 、 脛 に 傷 持つ 身 、 という 言葉 も ある よう です が 、 その 傷 は 、 自分 の 赤ん坊 の 時 から 、 自然 に 片方 の 脛 に あらわれ て 、 長ずる に 及ん で 治癒 する どころか 、 いよいよ 深く なる ばかり で 、 骨 に まで 達し 、 夜々 の 痛苦 は 千変万化 の 地獄 と は 言い ながら 、 しかし 、 （ これ は 、 たいへん 奇妙 な 言い方 です けど ） その 傷 は 、 次第に 自分 の 血肉 より も 親しく なり 、 その 傷 の 痛み は 、 すなわち 傷 の 生き て いる 感情 、 または 愛情 の 囁き の よう に さえ 思わ れる 、 そんな 男 にとって 、 れい の 地下 運動 の グルウプ の 雰囲気 が 、 へん に 安心 で 、 居心地 が よく 、 つまり 、 その 運動 の 本来 の 目的 より も 、 その 運動 の 肌 が 、 自分 に 合っ た 感じ な の でし た 。 堀木 の 場合 は 、 ただ もう 阿呆 の ひやかし で 、 いちど 自分 を 紹介 し に その 会合 へ 行っ た きり で 、 マルキシスト は 、 生産 面 の 研究 と 同時に 、 消費 面 の 視察 も 必要 だ など と 下手 な 洒落 を 言っ て 、 その 会合 に は 寄りつか ず 、 とかく 自分 を 、 その 消費 面 の 視察 の ほう に ばかり 誘い た がる の でし た 。 思え ば 、 当時 は 、 さまざま の 型 の マルキシスト が い た もの です 。 堀木 の よう に 、 虚栄 の モダニティ から 、 それ を 自称 する 者 も あり 、 また 自分 の よう に 、 ただ 非合法 の 匂い が 気にいっ て 、 そこ に 坐り込ん で いる 者 も あり 、 もしも これら の 実体 が 、 マルキシズム の 真 の 信奉 者 に 見破ら れ たら 、 堀木 も 自分 も 、 烈火 の 如く 怒ら れ 、 卑劣 なる 裏 切 者 として 、 たちどころに 追い払わ れ た 事 でしょ う 。 しかし 、 自分 も 、 また 、 堀木 で さえ も 、 なかなか 除名 の 処分 に 遭わ ず 、 殊 に も 自分 は 、 その 非合法 の 世界 に 於い て は 、 合法 の 紳士 たち の 世界 に 於け る より も 、 かえって のびのび と 、 所 謂 「 健康 」 に 振舞う 事 が 出来 まし た ので 、 見込み の ある 「 同志 」 として 、 噴き出し たく なる ほど 過度 に 秘密 めかし た 、 さまざま の 用事 を たのま れる ほど に なっ た の です 。 また 、 事実 、 自分 は 、 そんな 用事 を いちど も 断っ た こと は 無く 、 平気 で なん でも 引受け 、 へん に ぎくしゃく し て 、 犬 （ 同志 は 、 ポリス を そう 呼ん で い まし た ） に あやしま れ 不審 訊問 など を 受け て しくじる よう な 事 も 無かっ た し 、 笑い ながら 、 また 、 ひと を 笑わせ ながら 、 その あぶない （ その 運動 の 連中 は 、 一大事 の 如く 緊張 し 、 探偵 小説 の 下手 な 真似 みたい な 事 まで し て 、 極度 の 警戒 を 用い 、 そうして 自分 に たのむ 仕事 は 、 まことに 、 あっけ に とら れる くらい 、 つまらない もの でし た が 、 それでも 、 彼等 は 、 その 用事 を 、 さかん に 、 あぶな がっ て 力ん で いる の でし た ） と 、 彼等 の 称する 仕事 を 、 とにかく 正確 に やってのけ て い まし た 。 自分 の その 当時 の 気持 として は 、 党員 に なっ て 捕え られ 、 たとい 終身 、 刑務所 で 暮す よう に なっ た として も 、 平気 だっ た の です 。 世の中 の 人間 の 「 実生活 」 という もの を 恐怖 し ながら 、 毎夜 の 不眠 の 地獄 で 呻い て いる より は 、 いっそ 牢屋 の ほう が 、 楽 かも 知れ ない と さえ 考え て い まし た 。 
父 は 、 桜木 町 の 別荘 で は 、 来客 やら 外出 やら 、 同じ 家 に い て も 、 三 日 も 四 日 も 自分 と 顔 を 合せる 事 が 無い ほど でし た が 、 しかし 、 どうにも 、 父 が けむっ たく 、 おそろしく 、 この 家 を 出 て 、 どこ か 下宿 で も 、 と 考え ながら も それ を 言い出せ ず に い た 矢先 に 、 父 が その 家 を 売払う つもり らしい と いう 事 を 別荘 番 の 老爺 から 聞き まし た 。 
父 の 議員 の 任期 も そろそろ 満期 に 近づき 、 いろいろ 理由 の あっ た 事 に 違い あり ませ ん が 、 もう これ きり 選挙 に 出る 意志 も 無い 様子 で 、 それ に 、 故郷 に 一 棟 、 隠居 所 など 建て たり し て 、 東京 に 未練 も 無い らしく 、 たかが 、 高等 学校 の 一 生徒 に 過ぎ ない 自分 の ため に 、 邸宅 と 召使い を 提供 し て 置く の も 、 むだ な 事 だ と でも 考え た の か 、 （ 父 の 心 も また 、 世間 の 人 たち の 気持ち と 同様 に 、 自分 に は よく わかり ませ ん ） とにかく 、 その 家 は 、 間 も 無く 人手 にわたり 、 自分 は 、 本郷 森川 町 の 仙遊 館 という 古い 下宿 の 、 薄暗い 部屋 に 引越し て 、 そうして 、 たちまち 金 に 困り まし た 。 
それ まで 、 父 から 月々 、 きまっ た 額 の 小遣い を 手渡さ れ 、 それ は もう 、 二 、 三 日 で 無くなっ て も 、 しかし 、 煙草 も 、 酒 も 、 チイズ も 、 くだもの も 、 いつ でも 家 に あっ た し 、 本 や 文房具 や その他 、 服装 に関する もの など 一切 、 いつ でも 、 近所 の 店 から 所 謂 「 ツケ 」 で 求め られ た し 、 堀木 に おそ ばか 天丼 など を ごちそう し て も 、 父 の ひいき の 町内 の 店 だっ たら 、 自分 は 黙っ て その 店 を 出 て も かまわ なかっ た の でし た 。 
それ が 急 に 、 下宿 の ひとり 住い に なり 、 何もかも 、 月々 の 定額 の 送金 で 間に合わ せ なけれ ば なら なく なっ て 、 自分 は 、 まごつき まし た 。 送金 は 、 やはり 、 二 、 三 日 で 消え て しまい 、 自分 は 慄然 と し 、 心細 さ の ため に 狂う よう に なり 、 父 、 兄 、 姉 など へ 交互 に お金 を 頼む 電報 と 、 イサイフミ の 手紙 （ その 手紙 に 於い て 訴え て いる 事情 は 、 ことごとく 、 お 道化 の 虚構 でし た 。 人 に もの を 頼む のに 、 まず 、 その 人 を 笑わせる の が 上策 と 考え て い た の です ） を 連発 する 一方 、 また 、 堀木 に 教え られ 、 せっせと 質屋 が よい を はじめ 、 それでも 、 いつも お金 に 不自由 を し て い まし た 。 
所詮 、 自分 に は 、 何 の 縁故 も 無い 下宿 に 、 ひとり で 「 生活 」 し て 行く 能力 が 無かっ た の です 。 自分 は 、 下宿 の その 部屋 に 、 ひとり で じっと し て いる の が 、 おそろしく 、 いまにも 誰 か に 襲わ れ 、 一撃 せ られる よう な 気 が し て 来 て 、 街 に 飛び出し て は 、 れい の 運動 の 手伝い を し たり 、 或いは 堀木 と 一緒 に 安い 酒 を 飲み 廻っ たり し て 、 ほとんど 学業 も 、 また 画 の 勉強 も 放棄 し 、 高等 学校 へ 入学 し て 、 二 年 目 の 十一月 、 自分 より 年上 の 有夫 の 婦人 と 情死 事件 など を 起し 、 自分 の 身の上 は 、 一変 し まし た 。 
学校 は 欠席 する し 、 学科 の 勉強 も 、 すこし も し なかっ た のに 、 それでも 、 妙 に 試験 の 答案 に 要領 の いい ところ が ある よう で 、 どうやら それ まで は 、 故郷 の 肉親 を あざむき 通し て 来 た の です が 、 しかし 、 もう そろそろ 、 出席 日数 の 不足 など 、 学校 の ほう から 内密 に 故郷 の 父 へ 報告 が 行っ て いる らしく 、 父 の 代理 として 長兄 が 、 いかめしい 文章 の 長い 手紙 を 、 自分 に 寄こす よう に なっ て い た の でし た 。 けれども 、 それ より も 、 自分 の 直接 の 苦痛 は 、 金 の 無い 事 と 、 それから 、 れい の 運動 の 用事 が 、 とても 遊び 半分 の 気持 で は 出来 ない くらい 、 はげしく 、 いそがしく なっ て 来 た 事 でし た 。 中央 地区 と 言っ た か 、 何 地区 と 言っ た か 、 とにかく 本郷 、 小石川 、 下谷 、 神田 、 あの 辺 の 学校 全部 の 、 マルクス 学生 の 行動 隊 々 長 という もの に 、 自分 は なっ て い た の でし た 。 武装 蜂起 、 と 聞き 、 小さい ナイフ を 買い （ いま 思え ば 、 それ は 鉛筆 を けずる に も 足り ない 、 きゃしゃ な ナイフ でし た ） それ を 、 レンコオト の ポケット に いれ 、 あちこち 飛び廻っ て 、 所 謂 「 聯絡 」 を つける の でし た 。 お 酒 を 飲ん で 、 ぐっすり 眠り たい 、 しかし 、 お金 が あり ませ ん 。 しかも 、 Ｐ （ 党 の 事 を 、 そういう 隠語 で 呼ん で い た と 記憶 し て い ます が 、 或いは 、 違っ て いる かも 知れ ませ ん ） の ほう から は 、 次々 と 息 を つく ひま も 無い くらい 、 用事 の 依頼 が まいり ます 。 自分 の 病弱 の からだ で は 、 とても 勤まり そう も 無くなり まし た 。 もともと 、 非合法 の 興味 だけ から 、 その グルウプ の 手伝い を し て い た の です し 、 こんなに 、 それ こそ 冗談 から 駒 が 出 た よう に 、 いや に いそがしく なっ て 来る と 、 自分 は 、 ひそか に Ｐ の ひと たち に 、 それ は お 門 ちがい でしょ う 、 あなた たち の 直系 の もの たち に やら せ たら どう です か 、 という よう な いまいましい 感 を 抱く の を 禁ずる 事 が 出来 ず 、 逃げ まし た 。 逃げ て 、 さすが に 、 いい 気持 は せ ず 、 死ぬ 事 に し まし た 。 
その 頃 、 自分 に 特別 の 好意 を 寄せ て いる 女 が 、 三 人 い まし た 。 ひとり は 、 自分 の 下宿 し て いる 仙遊 館 の 娘 でし た 。 この 娘 は 、 自分 が れい の 運動 の 手伝い で へとへと に なっ て 帰り 、 ごはん も 食べ ず に 寝 て しまっ て から 、 必ず 用箋 と 万年筆 を 持っ て 自分 の 部屋 に やって来 て 、 
「 ごめんなさい 。 下 で は 、 妹 や 弟 が うるさく て 、 ゆっくり 手紙 も 書け ない の です 」 
と 言っ て 、 何やら 自分 の 机 に 向っ て 一 時間 以上 も 書い て いる の です 。 
自分 も また 、 知らん振り を し て 寝 て おれ ば いい のに 、 いかにも その 娘 が 何 か 自分 に 言っ て もらい たげ の 様子 な ので 、 れい の 受け身 の 奉仕 の 精神 を 発揮 し て 、 実に 一言 も 口 を きき たく ない 気持 な の だ けれども 、 くたくた に 疲れ 切っ て いる から だに 、 ウム と 気合い を かけ て 腹這い に なり 、 煙草 を 吸い 、 
「 女 から 来 た ラヴ ・ レター で 、 風呂 を わかし て はいっ た 男 が ある そう です よ 」 
「 あら 、 いや だ 。 あなた でしょ う ？ 」 
「 ミルク を わかし て 飲ん だ 事 は ある ん です 」 
「 光栄 だ わ 、 飲ん で よ 」 
早く この ひと 、 帰ら ねえ か なあ 、 手紙 だ なんて 、 見えすい て いる のに 。 へ へ の の も へ じ でも 書い て いる の に 違い ない ん です 。 
「 見せ て よ 」 
と 死ん で も 見 たく ない 思い で そう 言え ば 、 あら 、 いや よ 、 あら 、 いや よ 、 と 言っ て 、 その うれし がる 事 、 ひどく みっともなく 、 興 が 覚める ばかり な の です 。 そこで 自分 は 、 用事 で も 言いつけ て やれ 、 と 思う ん です 。 
「 すま ない けど ね 、 電車 通り の 薬屋 に 行っ て 、 カルモチン を 買っ て 来 て くれ ない ？ 　 あんまり 疲れ すぎ て 、 顔 が ほてっ て 、 かえって 眠れ ない ん だ 。 すま ない ね 。 お金 は 、 … … 」 
「 いい わ よ 、 お金 なんか 」 
よろこん で 立ち ます 。 用 を 言いつける という の は 、 決して 女 を しょげ させる 事 で は なく 、 かえって 女 は 、 男 に 用事 を たのま れる と 喜ぶ もの だ という 事 も 、 自分 は ちゃんと 知っ て いる の でし た 。 
もう ひとり は 、 女子 高等 師範 の 文科 生 の 所 謂 「 同志 」 でし た 。 この ひと と は 、 れい の 運動 の 用事 で 、 いや でも 毎日 、 顔 を 合せ なけれ ば なら なかっ た の です 。 打ち合せ が すんで から も 、 その 女 は 、 いつ まで も 自分 について 歩い て 、 そうして 、 やたら に 自分 に 、 もの を 買っ て くれる の でし た 。 
「 私 を 本当 の 姉 だ と 思っ て い て くれ て いい わ 」 
その キザ に 身震い し ながら 、 自分 は 、 
「 その つもり で いる ん です 」 
と 、 愁え を 含ん だ 微笑 の 表情 を 作っ て 答え ます 。 とにかく 、 怒ら せ て は 、 こわい 、 何とか し て 、 ごまかさ なけれ ば なら ぬ 、 という 思い 一つ の ため に 、 自分 は い よい よそ の 醜い 、 いや な 女 に 奉仕 を し て 、 そうして 、 もの を 買っ て もらっ て は 、 （ その 買い物 は 、 実に 趣味 の 悪い 品 ばかり で 、 自分 は たいてい 、 すぐ に それ を 、 焼きとり 屋 の 親爺 など に やっ て しまい まし た ） うれし そう な 顔 を し て 、 冗談 を 言っ て は 笑わせ 、 或 る 夏 の 夜 、 どうしても 離れ ない ので 、 街 の 暗い ところ で 、 その ひと に 帰っ て もらい たい ばかり に 、 キス を し て やり まし たら 、 あさましく 狂乱 の 如く 興奮 し 、 自動車 を 呼ん で 、 その ひと たち の 運動 の ため に 秘密 に 借り て ある らしい ビル の 事務所 みたい な 狭い 洋室 に 連れ て 行き 、 朝 まで 大騒ぎ という 事 に なり 、 とんでも ない 姉 だ 、 と 自分 は ひそか に 苦笑 し まし た 。 
下宿 屋 の 娘 と 言い 、 また この 「 同志 」 と 言い 、 どう し た って 毎日 、 顔 を 合せ なけれ ば なら ぬ 具合 に なっ て い ます ので 、 これ まで の 、 さまざま の 女 の ひと の よう に 、 うまく 避け られ ず 、 つい 、 ずるずる に 、 れい の 不安 の 心 から 、 この 二 人 の ご 機嫌 を ただ 懸命 に 取り結び 、 もはや 自分 は 、 金縛り 同様 の 形 に なっ て い まし た 。 
同じ 頃 また 自分 は 、 銀座 の 或 る 大 カフエ の 女給 から 、 思いがけ ぬ 恩 を 受け 、 たった いちど 逢っ た だけ な のに 、 それでも 、 その 恩 に こだわり 、 やはり 身動き 出来 ない ほど の 、 心配 やら 、 空 おそろし さ を 感じ て い た の でし た 。 その 頃 に なる と 、 自分 も 、 敢えて 堀木 の 案内 に 頼ら ず とも 、 ひとり で 電車 に も 乗れる し 、 また 、 歌舞伎座 に も 行ける し 、 または 、 絣 の 着物 を 着 て 、 カフエ に だって はいれる くらい の 、 多少 の 図々し さ を 装える よう に なっ て い た の です 。 心 で は 、 相 変ら ず 、 人間 の 自信 と 暴力 と を 怪しみ 、 恐れ 、 悩み ながら 、 うわべ だけ は 、 少し ずつ 、 他人 と 真顔 の 挨拶 、 いや 、 ちがう 、 自分 は やはり 敗北 の お 道化 の 苦しい 笑い を 伴わ ず に は 、 挨拶 でき ない たち な の です が 、 とにかく 、 無我夢中 の へどもど の 挨拶 で も 、 どうやら 出来る くらい の 「 伎倆 」 を 、 れい の 運動 で 走り 廻っ た おかげ ？ 　 または 、 女 の ？ 　 または 、 酒 ？ 　 けれども 、 おもに 金銭 の 不自由 の おかげ で 修得 しかけ て い た の です 。 どこ に い て も 、 おそろしく 、 かえって 大 カフエ で たくさん の 酔客 または 女給 、 ボーイ たち に もま れ 、 まぎれ込む 事 が 出来 たら 、 自分 の この 絶えず 追わ れ て いる よう な 心 も 落ちつく の で は なかろ う か 、 と 十 円 持っ て 、 銀座 の その 大 カフエ に 、 ひとり で は いっ て 、 笑い ながら 相手 の 女給 に 、 
「 十 円 しか 無い ん だ から ね 、 その つもり で 」 
と 言い まし た 。 
「 心配 要り ませ ん 」 
どこ か に 関西 の 訛り が あり まし た 。 そうして 、 その 一言 が 、 奇妙 に 自分 の 、 震え おののい て いる 心 を しずめ て くれ まし た 。 いいえ 、 お金 の 心配 が 要ら なく なっ た から で は あり ませ ん 、 その ひと の 傍 に いる 事 に 心配 が 要ら ない よう な 気 が し た の です 。 
自分 は 、 お 酒 を 飲み まし た 。 その ひと に 安心 し て いる ので 、 かえって お 道化 など 演じる 気持 も 起ら ず 、 自分 の 地金 の 無口 で 陰惨 な ところ を 隠さ ず 見せ て 、 黙っ て お 酒 を 飲み まし た 。 
「 こんな の 、 お すき か ？ 」 
女 は 、 さまざま の 料理 を 自分 の 前 に 並べ まし た 。 自分 は 首 を 振り まし た 。 
「 お 酒 だけ か ？ 　 うち も 飲も う 」 
秋 の 、 寒い 夜 でし た 。 自分 は 、 ツネ子 （ と いっ た と 覚え て い ます が 、 記憶 が 薄れ 、 たしか で は あり ませ ん 。 情死 の 相手 の 名前 を さえ 忘れ て いる よう な 自分 な の です ） に 言いつけ られ た とおり に 、 銀座 裏 の 、 或 る 屋台 の お 鮨 や で 、 少し も おいしく ない 鮨 を 食べ ながら 、 （ その ひと の 名前 は 忘れ て も 、 その 時 の 鮨 の まず さ だけ は 、 どう し た 事 か 、 はっきり 記憶 に 残っ て い ます 。 そうして 、 青大将 の 顔 に 似 た 顔つき の 、 丸坊主 の おやじ が 、 首 を 振り 振り 、 いかにも 上手 みたい に ごまかし ながら 鮨 を 握っ て いる 様 も 、 眼前 に 見る よう に 鮮明 に 思い出さ れ 、 後年 、 電車 など で 、 はて 見 た 顔 だ 、 と いろいろ 考え 、 なん だ 、 あの 時 の 鮨 や の 親爺 に 似 て いる ん だ 、 と 気 が 附き 苦笑 し た 事 も 再三 あっ た ほど でし た 。 あの ひと の 名前 も 、 また 、 顔かたち さえ 記憶 から 遠ざかっ て いる 現在 なお 、 あの 鮨 や の 親爺 の 顔 だけ は 絵 に かける ほど 正確 に 覚え て いる と は 、 よっぽど あの 時 の 鮨 が まずく 、 自分 に 寒 さ と 苦痛 を 与え た もの と 思わ れ ます 。 もともと 、 自分 は 、 うまい 鮨 を 食わ せる 店 という ところ に 、 ひと に 連れ られ て 行っ て 食っ て も 、 うまい と 思っ た 事 は 、 いちど も あり ませ ん でし た 。 大き 過ぎる の です 。 親指 くらい の 大き さ に キチッ と 握れ ない もの かしら 、 と いつも 考え て い まし た ） その ひと を 、 待っ て い まし た 。 
本所 の 大工 さん の 二 階 を 、 その ひと が 借り て い まし た 。 自分 は 、 その 二 階 で 、 日頃 の 自分 の 陰鬱 な 心 を 少し も かくさ ず 、 ひどい 歯痛 に 襲わ れ て でも いる よう に 、 片手 で 頬 を おさえ ながら 、 お茶 を 飲み まし た 。 そうして 、 自分 の そんな 姿態 が 、 かえって 、 その ひと に は 、 気にいっ た よう でし た 。 その ひと も 、 身 の まわり に 冷たい 木枯し が 吹い て 、 落葉 だけ が 舞い狂い 、 完全 に 孤立 し て いる 感じ の 女 でし た 。 
一緒 に やすみ ながら その ひと は 、 自分 より 二つ 年上 で ある こと 、 故郷 は 広島 、 あたし に は 主人 が ある の よ 、 広島 で 床屋 さん を し て い た の 、 昨年 の 春 、 一緒 に 東京 へ 家出 し て 逃げ て 来 た の だ けれども 、 主人 は 、 東京 で 、 まとも な 仕事 を せ ず その うち に 詐欺 罪 に 問わ れ 、 刑務所 に いる の よ 、 あたし は 毎日 、 何やら か やら 差し入れ し に 、 刑務所 へ かよっ て い た の だ けれども 、 あす から 、 やめ ます 、 など と 物語る の でし た が 、 自分 は 、 どういう もの か 、 女 の 身の上 噺 という もの に は 、 少し も 興味 を 持て ない たち で 、 それ は 女 の 語り 方 の 下手 な せい か 、 つまり 、 話 の 重点 の 置き 方 を 間違っ て いる せい な の か 、 とにかく 、 自分 に は 、 つねに 、 馬耳東風 な の で あり まし た 。 
侘び し い 。 
自分 に は 、 女 の 千 万言 の 身の上 噺 より も 、 その 一言 の 呟き の ほう に 、 共感 を そそら れる に 違い ない と 期待 し て い て も 、 この 世の中 の 女 から 、 ついに いちど も 自分 は 、 その 言葉 を 聞い た 事 が ない の を 、 奇怪 と も 不思議 と も 感じ て おり ます 。 けれども 、 その ひと は 、 言葉 で 「 侘び し い 」 と は 言い ませ ん でし た が 、 無言 の ひどい 侘び し さ を 、 からだ の 外郭 に 、 一寸 くらい の 幅 の 気流 みたい に 持っ て い て 、 その ひと に 寄り添う と 、 こちら の からだ も その 気流 に 包ま れ 、 自分 の 持っ て いる 多少 トゲトゲし た 陰鬱 の 気流 と 程よく 溶け合い 、 「 水底 の 岩 に 落ち 附く 枯葉 」 の よう に 、 わが身 は 、 恐怖 から も 不安 から も 、 離れる 事 が 出来る の でし た 。 
あの 白痴 の 淫売 婦 たち の ふところ の 中 で 、 安心 し て ぐっすり 眠る 思い と は 、 また 、 全く 異 って 、 （ だいいち 、 あの プロステチュウト たち は 、 陽気 でし た ） その 詐欺 罪 の 犯人 の 妻 と 過し た 一夜 は 、 自分 にとって 、 幸福 な （ こんな 大 それ た 言葉 を 、 なん の 躊躇 も 無く 、 肯定 し て 使用 する 事 は 、 自分 の この 全 手記 に 於い て 、 再び 無い つもり です ） 解放 せら れ た 夜 でし た 。 
しかし 、 ただ 一夜 でし た 。 朝 、 眼 が 覚め て 、 はね 起き 、 自分 は もと の 軽薄 な 、 装える お 道化者 に なっ て い まし た 。 弱虫 は 、 幸福 を さえ おそれる もの です 。 綿 で 怪我 を する ん です 。 幸福 に 傷つけ られる 事 も ある ん です 。 傷つけ られ ない うち に 、 早く 、 この まま 、 わかれ たい と あせり 、 れい の お 道化 の 煙幕 を 張り めぐらす の でし た 。 
「 金 の 切れめ が 縁 の 切れめ 、 って の はね 、 あれ はね 、 解釈 が 逆 な ん だ 。 金 が 無くなる と 女 に ふら れる って 意味 、 じゃ あ 無い ん だ 。 男 に 金 が 無くなる と 、 男 は 、 ただ おのずから 意気 銷沈 し て 、 ダメ に なり 、 笑う 声 に も 力 が 無く 、 そうして 、 妙 に ひがん だり なんか し て ね 、 ついに は 破れかぶれ に なり 、 男 の ほう から 女 を 振る 、 半 狂乱 に なっ て 振っ て 振っ て 振り 抜く という 意味 な ん だ ね 、 金沢 大辞林 という 本 に 依れ ば ね 、 可哀そう に 。 僕 に も 、 その 気持 わかる が ね 」 
たしか 、 そんな ふう の 馬鹿げ た 事 を 言っ て 、 ツネ子 を 噴き出さ せ た よう な 記憶 が あり ます 。 長居 は 無用 、 おそれ あり と 、 顔 も 洗わ ず に 素早く 引上げ た の です が 、 その 時 の 自分 の 、 「 金 の 切れめ が 縁 の 切れめ 」 という 出鱈目 の 放言 が 、 のち に 到っ て 、 意外 の ひっかかり を 生じ た の です 。 
それから 、 ひと つき 、 自分 は 、 その 夜 の 恩人 と は 逢い ませ ん でし た 。 別れ て 、 日 が 経つ につれて 、 よろこび は 薄れ 、 かり そ め の 恩 を 受け た 事 が かえって そらおそろしく 、 自分勝手 に ひどい 束縛 を 感じ て 来 て 、 あの カフエ の お 勘定 を 、 あの 時 、 全部 ツネ子 の 負担 に さ せ て しまっ た という 俗事 さえ 、 次第に 気 に なり はじめ て 、 ツネ子 も やはり 、 下宿 の 娘 や 、 あの 女子 高等 師範 と 同じく 、 自分 を 脅迫 する だけ の 女 の よう に 思わ れ 、 遠く 離れ て い ながら も 、 絶えず ツネ子 に おびえ て い て 、 その 上 に 自分 は 、 一緒 に 休ん だ 事 の ある 女 に 、 また 逢う と 、 その 時 に いきなり 何 か 烈火 の 如く 怒ら れ そう な 気 が し て たまら ず 、 逢う のに 頗る おっくう がる 性質 でし た ので 、 いよいよ 、 銀座 は 敬遠 の 形 でし た が 、 しかし 、 その おっくう がる という 性質 は 、 決して 自分 の 狡猾 さ で は なく 、 女性 という もの は 、 休ん で から の 事 と 、 朝 、 起き て から の 事 と の 間 に 、 一つ の 、 塵 ほど の 、 つながり を も 持た せ ず 、 完全 の 忘却 の 如く 、 見事 に 二つ の 世界 を 切断 さ せ て 生き て いる という 不思議 な 現象 を 、 まだ よく 呑みこん で い なかっ た から な の でし た 。 
十一月 の 末 、 自分 は 、 堀木 と 神田 の 屋台 で 安 酒 を 飲み 、 この 悪友 は 、 その 屋台 を 出 て から も 、 さらに どこ か で 飲も う と 主張 し 、 もう 自分 たち に は お金 が 無い のに 、 それでも 、 飲も う 、 飲も う よ 、 と ねばる の です 。 その 時 、 自分 は 、 酔っ て 大胆 に なっ て いる から でも あり まし た が 、 
「 よし 、 そん なら 、 夢 の 国 に 連れ て 行く 。 おどろく な 、 酒池肉林 という 、 … … 」 
「 カフエ か ？ 」 
「 そう 」 
「 行こ う ！ 」 
という よう な 事 に なっ て 二 人 、 市電 に 乗り 、 堀木 は 、 はしゃい で 、 
「 おれ は 、 今夜 は 、 女 に 飢え 渇い て いる ん だ 。 女給 に キス し て も いい か 」 
自分 は 、 堀木 が そんな 酔態 を 演じる 事 を 、 あまり 好ん で い ない の でし た 。 堀木 も 、 それ を 知っ て いる ので 、 自分 に そんな 念 を 押す の でし た 。 
「 いい か 。 キス する ぜ 。 おれ の 傍 に 坐っ た 女給 に 、 きっと キス し て 見せる 。 いい か 」 
「 かまわ ん だろ う 」 
「 ありがたい ！ 　 おれ は 女 に 飢え 渇い て いる ん だ 」 
銀座 四 丁目 で 降り て 、 その 所 謂 酒池肉林 の 大 カフエ に 、 ツネ子 を たのみ の 綱 として ほとんど 無一文 で はいり 、 あい て いる ボックス に 堀木 と 向い 合っ て 腰 を おろし た とたん に 、 ツネ子 と もう 一 人 の 女給 が 走り 寄っ て 来 て 、 その もう 一 人 の 女給 が 自分 の 傍 に 、 そうして ツネ子 は 、 堀木 の 傍 に 、 ドサン と 腰かけ た ので 、 自分 は 、 ハッ と し まし た 。 ツネ子 は 、 いま に キス さ れる 。 
惜しい という 気持 で は あり ませ ん でし た 。 自分 に は 、 もともと 所有 慾 という もの は 薄く 、 また 、 たまに 幽か に 惜しむ 気持 は あっ て も 、 その 所有 権 を 敢然と 主張 し 、 人 と 争う ほど の 気力 が 無い の でし た 。 のち に 、 自分 は 、 自分 の 内縁 の 妻 が 犯さ れる の を 、 黙っ て 見 て いた事 さえ あっ た ほど な の です 。 
自分 は 、 人間 の いざこざ に 出来る だけ 触り たく ない の でし た 。 その 渦 に 巻き込ま れる の が 、 おそろしい の でし た 。 ツネ子 と 自分 と は 、 一夜 だけ の 間柄 です 。 ツネ子 は 、 自分 の もの で は あり ませ ん 。 惜しい 、 など 思い 上っ た 慾 は 、 自分 に 持てる 筈 は あり ませ ん 。 けれども 、 自分 は 、 ハッ と し まし た 。 
自分 の 眼 の 前 で 、 堀木 の 猛烈 な キス を 受ける 、 その ツネ子 の 身の上 を 、 ふびん に 思っ た から でし た 。 堀木 に よごさ れ た ツネ子 は 、 自分 と わか れ なけれ ば なら なく なる だろ う 、 しかも 自分 に も 、 ツネ子 を 引き留める 程 の ポジティヴ な 熱 は 無い 、 ああ 、 もう 、 これ で おしまい な の だ 、 と ツネ子 の 不幸 に 一瞬 ハッ と し た ものの 、 すぐ に 自分 は 水 の よう に 素直 に あきらめ 、 堀木 と ツネ子 の 顔 を 見 較べ 、 にやにや と 笑い まし た 。 
しかし 、 事態 は 、 実に 思いがけなく 、 もっと 悪く 展開 せら れ まし た 。 
「 やめ た ！ 」 
と 堀木 は 、 口 を ゆがめ て 言い 、 
「 さすが の おれ も 、 こんな 貧乏 くさい 女 に は 、 … … 」 
閉口 し 切っ た よう に 、 腕組み し て ツネ子 を じろじろ 眺め 、 苦笑 する の でし た 。 
「 お 酒 を 。 お金 は 無い 」 
自分 は 、 小声 で ツネ子 に 言い まし た 。 それ こそ 、 浴びる ほど 飲ん で み たい 気持 でし た 。 所 謂 俗物 の 眼 から 見る と 、 ツネ子 は 酔漢 の キス に も 価 い し ない 、 ただ 、 みすぼらしい 、 貧乏 くさい 女 だっ た の でし た 。 案外 と も 、 意外と も 、 自分 に は 霹靂 に 撃ち くだか れ た 思い でし た 。 自分 は 、 これ まで 例 の 無かっ た ほど 、 いくら で も 、 いくら で も 、 お 酒 を 飲み 、 ぐらぐら 酔っ て 、 ツネ子 と 顔 を 見合せ 、 哀しく 微笑み 合い 、 いかにも そう 言わ れ て みる と 、 こいつ は へん に 疲れ て 貧乏 くさい だけ の 女 だ な 、 と 思う と 同時に 、 金 の 無い 者 どうし の 親和 （ 貧富 の 不和 は 、 陳腐 の よう で も 、 やはり ドラマ の 永遠 の テーマ の 一つ だ と 自分 は 今 で は 思っ て い ます が ） そいつ が 、 その 親和 感 が 、 胸 に 込み上げ て 来 て 、 ツネ子 が いとしく 、 生れ て この 時 はじめて 、 われ から 積極 的 に 、 微弱 ながら 恋 の 心 の 動く の を 自覚 し まし た 。 吐き まし た 。 前後 不覚 に なり まし た 。 お 酒 を 飲ん で 、 こんなに 我 を 失う ほど 酔っ た の も 、 その 時 が はじめて でし た 。 
眼 が 覚め たら 、 枕 もと に ツネ子 が 坐っ て い まし た 。 本所 の 大工 さん の 二 階 の 部屋 に 寝 て い た の でし た 。 
「 金 の 切れめ が 縁 の 切れめ 、 なんて おっしゃっ て 、 冗談 か と 思う て い たら 、 本気 か 。 来 て くれ ない の だ もの 。 ややこしい 切れめ や な 。 うち が 、 かせい で あげ て も 、 だめ か 」 
「 だめ 」 
それから 、 女 も 休ん で 、 夜 明けがた 、 女 の 口 から 「 死 」 という 言葉 が はじめて 出 て 、 女 も 人間 として の 営み に 疲れ 切っ て い た よう でし た し 、 また 、 自分 も 、 世の中 へ の 恐怖 、 わずらわし さ 、 金 、 れい の 運動 、 女 、 学業 、 考える と 、 とても この 上 こらえ て 生き て 行け そう も なく 、 その ひと の 提案 に 気軽 に 同意 し まし た 。 
けれども 、 その 時 に は まだ 、 実感 として の 「 死の う 」 という 覚悟 は 、 出来 て い なかっ た の です 。 どこ か に 「 遊び 」 が ひそん で い まし た 。 
その 日 の 午前 、 二 人 は 浅草 の 六 区 を さまよっ て い まし た 。 喫茶店 に はいり 、 牛乳 を 飲み まし た 。 
「 あなた 、 払う て 置い て 」 
自分 は 立っ て 、 袂 から がま口 を 出し 、 ひらく と 、 銅銭 が 三 枚 、 羞恥 より も 凄惨 の 思い に 襲わ れ 、 たちまち 脳裡 に 浮ぶ もの は 、 仙遊 館 の 自分 の 部屋 、 制服 と 蒲団 だけ が 残さ れ て ある きり で 、 あと は もう 、 質草 に なり そう な もの の 一つ も 無い 荒涼たる 部屋 、 他 に は 自分 の いま 着 て 歩い て いる 絣 の 着物 と 、 マント 、 これ が 自分 の 現実 な の だ 、 生き て 行け ない 、 と はっきり 思い知り まし た 。 
自分 が まごつい て いる ので 、 女 も 立っ て 、 自分 の がま口 を のぞい て 、 
「 あら 、 たった それ だけ ？ 」 
無心 の 声 でし た が 、 これ が また 、 じんと 骨身 に こたえる ほど に 痛かっ た の です 。 はじめて 自分 が 、 恋 し た ひと の 声 だけ に 、 痛かっ た の です 。 それ だけ も 、 これ だけ も ない 、 銅銭 三 枚 は 、 どだい お金 で あり ませ ん 。 それ は 、 自分 が 未だ かつて 味わっ た 事 の 無い 奇妙 な 屈辱 でし た 。 とても 生き て おら れ ない 屈辱 でし た 。 所詮 その頃 の 自分 は 、 まだ お 金持ち の 坊ちゃん という 種 属 から 脱し 切っ て い なかっ た の でしょ う 。 その 時 、 自分 は 、 みずから すすん で も 死の う と 、 実感 として 決意 し た の です 。 
その 夜 、 自分 たち は 、 鎌倉 の 海 に 飛び込み まし た 。 女 は 、 この 帯 は お 店 の お 友達 から 借り て いる 帯 や から 、 と 言っ て 、 帯 を ほどき 、 畳ん で 岩 の 上 に 置き 、 自分 も マント を 脱ぎ 、 同じ 所 に 置い て 、 一緒 に 入水 し まし た 。 
女 の ひと は 、 死に まし た 。 そうして 、 自分 だけ 助かり まし た 。 
自分 が 高等 学校 の 生徒 で は あり 、 また 父 の 名 に も いくら か 、 所 謂 ニュウス・ヴァリュ が あっ た の か 、 新聞 に も かなり 大きな 問題 として 取り上げ られ た よう でし た 。 
自分 は 海辺 の 病院 に 収容 せら れ 、 故郷 から 親戚 の 者 が ひとり 駈け つけ 、 さまざま の 始末 を し て くれ て 、 そうして 、 くに の 父 を はじめ 一家 中 が 激怒 し て いる から 、 これ っきり 生家 と は 義絶 に なる かも 知れ ぬ 、 と 自分 に 申し渡し て 帰り まし た 。 けれども 自分 は 、 そんな 事 より 、 死ん だ ツネ子 が 恋い しく 、 めそめそ 泣い て ばかり い まし た 。 本当に 、 いま まで の ひと の 中 で 、 あの 貧乏 くさい ツネ子 だけ を 、 すき だっ た の です から 。 
下宿 の 娘 から 、 短歌 を 五 十 も 書き つらね た 長い 手紙 が 来 まし た 。 「 生き くれ よ 」 という へん な 言葉 で はじまる 短歌 ばかり 、 五 十 でし た 。 また 、 自分 の 病室 に 、 看護 婦 たち が 陽気 に 笑い ながら 遊び に 来 て 、 自分 の 手 を きゅっと 握っ て 帰る 看護 婦 も い まし た 。 
自分 の 左 肺 に 故障 の ある の を 、 その 病院 で 発見 せら れ 、 これ が たいへん 自分 に 好都合 な 事 に なり 、 やがて 自分 が 自殺 幇助 罪 という 罪名 で 病院 から 警察 に 連れ て 行か れ まし た が 、 警察 で は 、 自分 を 病人 あつかい に し て くれ て 、 特に 保護 室 に 収容 し まし た 。 
深夜 、 保護 室 の 隣り の 宿直 室 で 、 寝ずの番 を し て い た 年寄り の お巡り が 、 間 の ドア を そっと あけ 、 
「 おい ！ 」 
と 自分 に 声 を かけ 、 
「 寒い だろ う 。 こっち へ 来 て 、 あたれ 」 
と 言い まし た 。 
自分 は 、 わざと しおしお と 宿直 室 に は いっ て 行き 、 椅子 に 腰かけ て 火鉢 に あたり まし た 。 
「 やはり 、 死ん だ 女 が 恋い し い だろ う 」 
「 はい 」 
ことさら に 、 消え入る よう な 細い 声 で 返事 し まし た 。 
「 そこ が 、 やはり 人情 という もの だ 」 
彼 は 次第に 、 大きく 構え て 来 まし た 。 
「 はじめ 、 女 と 関係 を 結ん だ の は 、 どこ だ 」 
ほとんど 裁判官 の 如く 、 もったいぶっ て 尋ねる の でし た 。 彼 は 、 自分 を 子供 と あなどり 、 秋 の 夜 の つれづれ に 、 あたかも 彼 自身 が 取調べ の 主任 で も ある か の よう に 装い 、 自分 から 猥談 めい た 述懐 を 引き出そ う という 魂胆 の よう でし た 。 自分 は 素早く それ を 察し 、 噴き出し たい の を 怺 える のに 骨 を 折り まし た 。 そんな お巡り の 「 非公式 な 訊問 」 に は 、 いっさい 答 を 拒否 し て も かまわ ない の だ という 事 は 、 自分 も 知っ て い まし た が 、 しかし 、 秋 の 夜 な が に 興 を 添える ため 、 自分 は 、 あくまでも 神妙 に 、 その お巡り こそ 取調べ の 主任 で あっ て 、 刑罰 の 軽重 の 決定 も その お巡り の 思召 し 一つ に 在る の だ 、 という 事 を 固く 信じ て 疑わ ない よう な 所 謂 誠意 を お もて に あらわし 、 彼 の 助平 の 好奇 心 を 、 やや 満足 さ せる 程度 の いい加減 な 「 陳述 」 を する の でし た 。 
「 うん 、 それで だいたい わかっ た 。 何 でも 正直 に 答える と 、 わし ら の ほう で も 、 そこ は 手心 を 加える 」 
「 ありがとう ござい ます 。 よろしく お願い いたし ます 」 
ほとんど 入神 の 演技 でし た 。 そうして 、 自分 の ため に は 、 何 も 、 一つ も 、 とくに なら ない 力演 な の です 。 
夜 が 明け て 、 自分 は 署長 に 呼び出さ れ まし た 。 こんど は 、 本式 の 取調べ な の です 。 
ドア を あけ て 、 署長 室 に はいっ た とたん に 、 
「 おう 、 いい 男 だ 。 これ あ 、 お前 が 悪い ん じゃ ない 。 こんな 、 いい 男 に 産ん だ お前 の おふくろ が 悪い ん だ 」 
色 の 浅黒い 、 大学 出 みたい な 感じ の まだ 若い 署長 でし た 。 いきなり そう 言わ れ て 自分 は 、 自分 の 顔 の 半面 に べったり 赤 痣 で も ある よう な 、 みにくい 不具 者 の よう な 、 みじめ な 気 が し まし た 。 
この 柔道 か 剣道 の 選手 の よう な 署長 の 取調べ は 、 実に あっさり し て い て 、 あの 深夜 の 老 巡査 の ひそか な 、 執拗 きわまる 好色 の 「 取調べ 」 と は 、 雲泥の差 が あり まし た 。 訊問 が すん で 、 署長 は 、 検事 局 に 送る 書類 を し た ため ながら 、 
「 からだ を 丈夫 に し なけれ ゃ 、 いか ん ね 。 血痰 が 出 て いる よう じゃ ない か 」 
と 言い まし た 。 
その 朝 、 へん に 咳 が 出 て 、 自分 は 咳 の 出る たび に 、 ハンケチ で 口 を 覆っ て い た の です が 、 その ハンケチ に 赤い 霰 が 降っ た みたい に 血 が つい て い た の です 。 けれども 、 それ は 、 喉 から 出 た 血 で は なく 、 昨夜 、 耳 の 下 に 出来 た 小さい おでき を いじっ て 、 その おでき から 出 た 血 な の でし た 。 しかし 、 自分 は 、 それ を 言い 明 さ ない ほう が 、 便宜 な 事 も ある よう な 気 が ふっと し た もの です から 、 ただ 、 
「 はい 」 
と 、 伏 眼 に なり 、 殊勝 げ に 答え て 置き まし た 。 
署長 は 書類 を 書き 終え て 、 
「 起訴 に なる か どう か 、 それ は 検事 殿 が きめる こと だ が 、 お前 の 身元 引受 人 に 、 電報 か 電話 で 、 きょう 横浜 の 検事 局 に 来 て もらう よう に 、 たのん だ ほう が いい な 。 誰 か 、 ある だろ う 、 お前 の 保護 者 とか 保証 人 とかいう もの が 」 
父 の 東京 の 別荘 に 出入り し て い た 書画 骨董 商 の 渋田 という 、 自分 たち と 同郷 人 で 、 父 の たいこ 持ち みたい な 役 も 勤め て い た ずんぐり し た 独身 の 四 十 男 が 、 自分 の 学校 の 保証 人 に なっ て いる の を 、 自分 は 思い出し まし た 。 その 男 の 顔 が 、 殊に 眼 つき が 、 ヒラメ に 似 て いる と いう ので 、 父 は いつも その 男 を ヒラメ と 呼び 、 自分 も 、 そう 呼び なれ て い まし た 。 
自分 は 警察 の 電話 帳 を 借り て 、 ヒラメ の 家 の 電話 番号 を 捜し 、 見つかっ た ので 、 ヒラメ に 電話 し て 、 横浜 の 検事 局 に 来 て くれる よう に 頼み まし たら 、 ヒラメ は 人 が 変っ た みたい な 威張っ た 口調 で 、 それでも 、 とにかく 引受け て くれ まし た 。 
「 おい 、 その 電話機 、 すぐ 消毒 し た ほう が いい ぜ 。 何せ 、 血痰 が 出 て いる ん だ から 」 
自分 が 、 また 保護 室 に 引き上げ て から 、 お巡り たち に そう 言いつけ て いる 署長 の 大きな 声 が 、 保護 室 に 坐っ て いる 自分 の 耳 に まで 、 とどき まし た 。 
お昼 すぎ 、 自分 は 、 細い 麻 繩 で 胴 を 縛ら れ 、 それ は マント で 隠す こと を 許さ れ まし た が 、 その 麻 繩 の 端 を 若い お巡り が 、 しっかり 握っ て い て 、 二 人 一緒 に 電車 で 横浜 に 向い まし た 。 
けれども 、 自分 に は 少し の 不安 も 無く 、 あの 警察 の 保護 室 も 、 老 巡査 も なつかしく 、 嗚呼 、 自分 は どうして こう な の でしょ う 、 罪人 として 縛ら れる と 、 かえって ほっと し て 、 そうして ゆったり 落ちつい て 、 その 時 の 追憶 を 、 いま 書く に 当っ て も 、 本当に のびのび し た 楽しい 気持 に なる の です 。 
しかし 、 その 時期 の なつかしい 思い出 の 中 に も 、 たった 一つ 、 冷汗 三 斗 の 、 生涯 わすれ られ ぬ 悲惨 な しくじり が あっ た の です 。 自分 は 、 検事 局 の 薄暗い 一室 で 、 検事 の 簡単 な 取調べ を 受け まし た 。 検事 は 四 十 歳 前後 の 物静か な 、 （ もし 自分 が 美貌 だっ た として も 、 それ は 謂わ ば 邪淫 の 美貌 だっ た に 違い あり ませ ん が 、 その 検事 の 顔 は 、 正しい 美貌 、 と でも 言い たい よう な 、 聡明 な 静謐 の 気配 を 持っ て い まし た ） コセコセ し ない 人柄 の よう でし た ので 、 自分 も 全く 警戒 せ ず 、 ぼんやり 陳述 し て い た の です が 、 突然 、 れい の 咳 が 出 て 来 て 、 自分 は 袂 から ハンケチ を 出し 、 ふと その 血 を 見 て 、 この 咳 も また 何 か の 役に立つ かも 知れ ぬ と あさましい 駈 引き の 心 を 起し 、 ゴホン 、 ゴホン と 二つ ばかり 、 おまけ の 贋 の 咳 を 大袈裟 に 附け 加え て 、 ハンケチ で 口 を 覆っ た まま 検事 の 顔 を ちら と 見 た 、 間一髪 、 
「 ほんとう かい ？ 」 
ものしずか な 微笑 でし た 。 冷汗 三 斗 、 いいえ 、 いま 思い出し て も 、 きりきり舞い を し たく なり ます 。 中学 時代 に 、 あの 馬鹿 の 竹 一 から 、 ワザ 、 ワザ 、 と 言わ れ て 脊中 を 突か れ 、 地獄 に 蹴落さ れ た 、 その 時 の 思い 以上 と 言っ て も 、 決して 過言 で は 無い 気持 です 。 あれ と 、 これ と 、 二つ 、 自分 の 生涯 に 於け る 演技 の 大 失敗 の 記録 です 。 検事 の あんな 物静か な 侮蔑 に 遭う より は 、 いっそ 自分 は 十 年 の 刑 を 言い渡さ れ た ほう が 、 まし だっ た と 思う 事 さえ 、 時たま ある 程 な の です 。 
自分 は 起訴 猶予 に なり まし た 。 けれども 一向に うれしく なく 、 世にも みじめ な 気持 で 、 検事 局 の 控室 の ベンチ に 腰かけ 、 引取 り 人 の ヒラメ が 来る の を 待っ て い まし た 。 
背後 の 高い 窓 から 夕焼け の 空 が 見え 、 鴎 が 、 「 女 」 という 字 みたい な 形 で 飛ん で い まし た 。 
第 三 の 手記 
竹 一 の 予言 の 、 一つ は 当り 、 一つ は 、 はずれ まし た 。 惚れ られる という 、 名誉 で 無い 予言 の ほう は 、 あたり まし た が 、 きっと 偉い 絵 画き に なる という 、 祝福 の 予言 は 、 はずれ まし た 。 
自分 は 、 わずか に 、 粗悪 な 雑誌 の 、 無名 の 下手 な 漫画 家 に なる 事 が 出来 た だけ でし た 。 
鎌倉 の 事件 の ため に 、 高等 学校 から は 追放 せら れ 、 自分 は 、 ヒラメ の 家 の 二 階 の 、 三 畳 の 部屋 で 寝起き し て 、 故郷 から は 月々 、 極めて 小額 の 金 が 、 それ も 直接 に 自分 宛 で は なく 、 ヒラメ の ところ に ひそか に 送ら れ て 来 て いる 様子 でし た が 、 （ しかも 、 それ は 故郷 の 兄たち が 、 父 に かくし て 送っ て くれ て いる という 形式 に なっ て い た よう でし た ） それ っきり 、 あと は 故郷 と の つながり を 全然 、 断ち切ら れ て しまい 、 そうして 、 ヒラメ は いつも 不 機嫌 、 自分 が あいそ 笑い を し て も 、 笑わ ず 、 人間 という もの は こんなにも 簡単 に 、 それ こそ 手のひら を かえす が 如く に 変化 できる もの か と 、 あさましく 、 いや 、 むしろ 滑稽 に 思わ れる くらい の 、 ひどい 変り 様 で 、 
「 出 ちゃ いけ ませ ん よ 。 とにかく 、 出 ない で 下さい よ 」 
それ ばかり 自分 に 言っ て いる の でし た 。 
ヒラメ は 、 自分 に 自殺 の おそれ あり と 、 にらん で いる らしく 、 つまり 、 女 の 後 を 追って また 海 へ 飛び込ん だり する 危険 が ある と 見 て とっ て いる らしく 、 自分 の 外出 を 固く 禁じ て いる の でし た 。 けれども 、 酒 も 飲め ない し 、 煙草 も 吸え ない し 、 ただ 、 朝 から 晩 まで 二 階 の 三 畳 の こたつ に もぐっ て 、 古 雑誌 なんか 読ん で 阿呆 同然 の くらし を し て いる 自分 に は 、 自殺 の 気力 さえ 失わ れ て い まし た 。 
ヒラメ の 家 は 、 大久保 の 医 専 の 近く に あり 、 書画 骨董 商 、 青 竜 園 、 だ など と 看板 の 文字 だけ は 相当 に 気張っ て い て も 、 一 棟 二 戸 の 、 その 一 戸 で 、 店 の 間口 も 狭く 、 店内 は ホコリ だらけ で 、 いい加減 な ガラクタ ばかり 並べ 、 （ もっとも 、 ヒラメ は その 店 の ガラクタ に たよっ て 商売 し て いる わけ で は なく 、 こっち の 所 謂 旦那 の 秘蔵 の もの を 、 あっち の 所 謂 旦那 に その 所有 権 を ゆずる 場合 など に 活躍 し て 、 お金 を もうけ て いる らしい の です ） 店 に 坐っ て いる 事 は 殆ど 無く 、 たいてい 朝 から 、 むずかし そう な 顔 を し て そそくさ と 出かけ 、 留守 は 十 七 、 八 の 小僧 ひとり 、 これ が 自分 の 見張り 番 という わけ で 、 ひま さえ あれ ば 近所 の 子供 たち と 外 で キャッチボール など し て い て も 、 二 階 の 居候 を まるで 馬鹿 か 気違い くらい に 思っ て いる らしく 、 大人 の 説教 くさい 事 まで 自分 に 言い聞かせ 、 自分 は 、 ひと と 言い 争い の 出来 ない 質 な ので 、 疲れ た よう な 、 また 、 感心 し た よう な 顔 を し て それ に 耳 を 傾け 、 服従 し て いる の でし た 。 この 小僧 は 渋田 の かくし子 で 、 それでも へん な 事情 が あっ て 、 渋田 は 所 謂 親子 の 名乗り を せ ず 、 また 渋田 が ずっと 独身 な の も 、 何やら その 辺 に 理由 が あっ て の 事 らしく 、 自分 も 以前 、 自分 の 家 の 者 たち から それ に 就い て の 噂 を 、 ちょっと 聞い た よう な 気 も する の です が 、 自分 は 、 どうも 他人 の 身の上 に は 、 あまり 興味 を 持て ない ほう な ので 、 深い 事 は 何 も 知り ませ ん 。 しかし 、 その 小僧 の 眼 つき に も 、 妙 に 魚 の 眼 を 聯想 さ せる ところ が あり まし た から 、 或いは 、 本当に ヒラメ の かくし子 、 … … でも 、 それ なら ば 、 二 人 は 実に 淋しい 親子 でし た 。 夜 おそく 、 二 階 の 自分 に は 内緒 で 、 二 人 で お そば など を 取寄せ て 無言 で 食べ て いる 事 が あり まし た 。 
ヒラメ の 家 で は 食事 は いつも その 小僧 が つくり 、 二 階 の やっかい 者 の 食事 だけ は 別に お 膳 に 載せ て 小僧 が 三度々々 二 階 に 持ち運ん で 来 て くれ て 、 ヒラメ と 小僧 は 、 階段 の 下 の じめじめ し た 四畳半 で 何やら 、 カチャカチャ 皿 小鉢 の 触れ合う 音 を さ せ ながら 、 いそがし げ に 食事 し て いる の でし た 。 
三月 末 の 或 る 夕方 、 ヒラメ は 思わ ぬ もうけ 口 に でも ありつい た の か 、 または 何 か 他 に 策略 で も あっ た の か 、 （ その 二つ の 推察 が 、 ともに 当っ て い た として も 、 おそらくは 、 さらに また いくつ か の 、 自分 など に は とても 推察 の とどか ない こまかい 原因 も あっ た の でしょ う が ） 自分 を 階下 の 珍 らしく お 銚子 など 附い て いる 食卓 に 招い て 、 ヒラメ なら ぬ マグロ の 刺身 に 、 ごちそう の 主人 みずから 感服 し 、 賞 讃 し 、 ぼんやり し て いる 居候 に も 少しく お 酒 を すすめ 、 
「 どう する つもり な ん です 、 いったい 、 これから 」 
自分 は それ に 答え ず 、 卓上 の 皿 から 畳鰯 を つまみ上げ 、 その 小 魚 たち の 銀 の 眼 玉 を 眺め て い たら 、 酔い が ほのぼの 発し て 来 て 、 遊び 廻っ て い た 頃 が なつかしく 、 堀木 で さえ なつかしく 、 つくづく 「 自由 」 が 欲しく なり 、 ふっと 、 かぼそく 泣き そう に なり まし た 。 
自分 が この 家 へ 来 て から は 、 道化 を 演ずる 張合い さえ 無く 、 ただ もう ヒラメ と 小僧 の 蔑視 の 中 に 身 を 横たえ 、 ヒラメ の ほう で も また 、 自分 と 打ち解け た 長 噺 を する の を 避け て いる 様子 でし た し 、 自分 も その ヒラメ を 追いかけ て 何 か を 訴える 気 など は 起ら ず 、 ほとんど 自分 は 、 間抜け づら の 居候 に なり 切っ て い た の です 。 
「 起訴 猶予 という の は 、 前科 何 犯 とか 、 そんな もの に は 、 なら ない 模様 です 。 だから 、 まあ 、 あなた の 心掛け 一つ で 、 更生 が 出来る わけ です 。 あなた が 、 もし 、 改心 し て 、 あなた の ほう から 、 真面目 に 私 に 相談 を 持ちかけ て くれ たら 、 私 も 考え て み ます 」 
ヒラメ の 話 方 に は 、 いや 、 世の中 の 全部 の 人 の 話 方 に は 、 この よう に ややこしく 、 どこ か 朦朧 として 、 逃腰 と でも いっ た みたい な 微妙 な 複雑 さ が あり 、 その ほとんど 無益 と 思わ れる くらい の 厳重 な 警戒 と 、 無数 と いっ て いい くらい の 小うるさい 駈 引 と に は 、 いつも 自分 は 当惑 し 、 どう でも いい や という 気分 に なっ て 、 お 道化 で 茶化し たり 、 または 無言 の 首肯 で 一 さい おまかせ という 、 謂わ ば 敗北 の 態度 を とっ て しまう の でし た 。 
この 時 も ヒラメ が 、 自分 に 向っ て 、 だいたい 次 の よう に 簡単 に 報告 すれ ば 、 それで すむ 事 だっ た の を 自分 は 後年 に 到っ て 知り 、 ヒラメ の 不 必要 な 用心 、 いや 、 世の中 の 人 たち の 不可解 な 見栄 、 お てい さい に 、 何とも 陰鬱 な 思い を し まし た 。 
ヒラメ は 、 その 時 、 ただ こう 言え ば よかっ た の でし た 。 
「 官立 で も 私立 で も 、 とにかく 四月 から 、 どこ か の 学校 へ はいり なさい 。 あなた の 生活 費 は 、 学校 へ はいる と 、 くに から 、 もっと 充分 に 送っ て 来る 事 に なっ て いる の です 。 」 
ずっと 後 に なっ て わかっ た の です が 、 事実 は 、 その よう に なっ て い た の でし た 。 そうして 、 自分 も その 言いつけ に 従っ た でしょ う 。 それなのに 、 ヒラメ の いや に 用心深く 持っ て 廻っ た 言い方 の ため に 、 妙 に こじれ 、 自分 の 生き て 行く 方向 も まるで 変っ て しまっ た の です 。 
「 真面目 に 私 に 相談 を 持ちかけ て くれる 気持 が 無けれ ば 、 仕様 が ない です が 」 
「 どんな 相談 ？ 」 
自分 に は 、 本当に 何 も 見当 が つか なかっ た の です 。 
「 それ は 、 あなた の 胸 に ある 事 でしょ う ？ 」 
「 たとえば ？ 」 
「 たとえば って 、 あなた 自身 、 これから どう する 気 な ん です 」 
「 働い た ほう が 、 いい ん です か ？ 」 
「 いや 、 あなた の 気持 は 、 いったい どう な ん です 」 
「 だって 、 学校 へ はいる と いっ たって 、 … … 」 
「 そりゃ 、 お金 が 要り ます 。 しかし 、 問題 は 、 お金 で ない 。 あなた の 気持 です 」 
お金 は 、 くに から 来る 事 に なっ て いる ん だ から 、 と なぜ 一 こと 、 言わ なかっ た の でしょ う 。 その 一言 に 依っ て 、 自分 の 気持 も 、 きまっ た 筈 な のに 、 自分 に は 、 ただ 五里霧中 でし た 。 
「 どう です か ？ 　 何 か 、 将来 の 希望 、 と でも いっ た もの が 、 ある ん です か ？ 　 いったい 、 どうも 、 ひと を ひとり 世話 し て いる という の は 、 どれ だけ むずかしい もの だ か 、 世話 さ れ て いる ひと に は 、 わかり ます まい 」 
「 すみません 」 
「 そりゃ 実に 、 心配 な もの です 。 私 も 、 いったん あなた の 世話 を 引受け た 以上 、 あなた に も 、 生半可 な 気持 で い て もらい たく ない の です 。 立派 に 更生 の 道 を たどる 、 という 覚悟 の ほど を 見せ て もらい たい の です 。 たとえば 、 あなた の 将来 の 方針 、 それ に 就い て あなた の ほう から 私 に 、 まじめ に 相談 を 持ちかけ て 来 た なら 、 私 も その 相談 に は 応ずる つもり で い ます 。 それ は 、 どうせ こんな 、 貧乏 な ヒラメ の 援助 な の です から 、 以前 の よう な ぜいたく を 望ん だら 、 あて が はずれ ます 。 しかし 、 あなた の 気持 が しっかり し て い て 、 将来 の 方針 を はっきり 打ち 樹 て 、 そう し て 私 に 相談 を し て くれ たら 、 私 は 、 たとい わずか ずつ で も 、 あなた の 更生 の ため に 、 お手伝い しよ う と さえ 思っ て いる ん です 。 わかり ます か ？ 　 私 の 気持 が 。 いったい 、 あなた は 、 これから 、 どう する つもり で いる の です 」 
「 ここ の 二 階 に 、 置い て もらえ なかっ たら 、 働い て 、 … … 」 
「 本気 で 、 そんな 事 を 言っ て いる の です か ？ 　 いま の この 世の中 に 、 たとい 帝国 大 学校 を 出 た って 、 … … 」 
「 いいえ 、 サラリイマン に なる ん で は 無い ん です 」 
「 それ じゃ 、 何 です 」 
「 画家 です 」 
思い切っ て 、 それ を 言い まし た 。 
「 へええ ？ 」 
自分 は 、 その 時 の 、 頸 を ちぢめ て 笑っ た ヒラメ の 顔 の 、 いかにも ずる そう な 影 を 忘れる 事 が 出来 ませ ん 。 軽蔑 の 影 に も 似 て 、 それとも 違い 、 世の中 を 海 に たとえる と 、 その 海 の 千尋 の 深 さ の 箇所 に 、 そんな 奇妙 な 影 が たゆ とうてい そう で 、 何 か 、 おとな の 生活 の 奥底 を チラ と 覗か せ た よう な 笑い でし た 。 
そんな 事 で は 話 に も 何 も なら ぬ 、 ちっとも 気持 が しっかり し て い ない 、 考え なさい 、 今夜 一 晩 まじめ に 考え て み なさい 、 と 言わ れ 、 自分 は 追わ れる よう に 二 階 に 上っ て 、 寝 て も 、 別に 何 の 考え も 浮び ませ ん でし た 。 そうして 、 あけ がた に なり 、 ヒラメ の 家 から 逃げ まし た 。 
夕方 、 間違い なく 帰り ます 。 左記 の 友人 の 許 へ 、 将来 の 方針 に 就い て 相談 に 行っ て 来る の です から 、 御 心配 無く 。 ほんとう に 。 
と 、 用箋 に 鉛筆 で 大きく 書き 、 それから 、 浅草 の 堀木 正雄 の 住所 姓名 を 記し て 、 こっそり 、 ヒラメ の 家 を 出 まし た 。 
ヒラメ に 説教 せら れ た の が 、 くやしく て 逃げ た わけ で は あり ませ ん でし た 。 まさしく 自分 は 、 ヒラメ の 言う と おり 、 気持 の しっかり し て い ない 男 で 、 将来 の 方針 も 何 も 自分 に は まるで 見当 が つか ず 、 この 上 、 ヒラメ の 家 の やっかい に なっ て いる の は 、 ヒラメ に も 気の毒 です し 、 その うち に 、 もし 万一 、 自分 に も 発奮 の 気持 が 起り 、 志 を 立て た ところ で 、 その 更生 資金 を あの 貧乏 な ヒラメ から 月々 援助 せ られる の か と 思う と 、 とても 心苦しく て 、 いたたまらない 気持 に なっ た から でし た 。 
しかし 、 自分 は 、 所 謂 「 将来 の 方針 」 を 、 堀木 ご とき に 、 相談 に 行こ う など と 本気 に 思っ て 、 ヒラメ の 家 を 出 た の で は 無かっ た の でし た 。 それ は 、 ただ 、 わずか でも 、 つか の まで も 、 ヒラメ に 安心 さ せ て 置き たく て 、 （ その間 に 自分 が 、 少し でも 遠く へ 逃げのび て い たい という 探偵 小説 的 な 策略 から 、 そんな 置手紙 を 書い た 、 と いう より は 、 いや 、 そんな 気持 も 幽か に あっ た に 違い ない の です が 、 それ より も 、 やはり 自分 は 、 いきなり ヒラメ に ショック を 与え 、 彼 を 混乱 当惑 さ せ て しまう の が 、 おそろしかっ た ばかり に 、 と でも 言っ た ほう が 、 いくら か 正確 かも 知れ ませ ん 。 どうせ 、 ばれる に きまっ て いる のに 、 その とおり に 言う の が 、 おそろしく て 、 必ず 何かしら 飾り を つける の が 、 自分 の 哀しい 性癖 の 一つ で 、 それ は 世間 の 人 が 「 嘘つき 」 と 呼ん で 卑しめ て いる 性格 に 似 て い ながら 、 しかし 、 自分 は 自分 に 利益 を もたらそ う として その 飾り つけ を 行っ た 事 は ほとんど 無く 、 ただ 雰囲気 の 興 覚め た 一変 が 、 窒息 する くらい に おそろしく て 、 後で 自分 に 不利益 に なる という 事 が わかっ て い て も 、 れい の 自分 の 「 必死 の 奉仕 」 それ は たとい ゆがめ られ 微弱 で 、 馬鹿らしい もの で あろ う と 、 その 奉仕 の 気持 から 、 つい 一言 の 飾り つけ を し て しまう という 場合 が 多かっ た よう な 気 も する の です が 、 しかし 、 この 習性 も また 、 世間 の 所 謂 「 正直 者 」 たち から 、 大いに 乗ぜ られる ところ と なり まし た ） その 時 、 ふっと 、 記憶 の 底 から 浮ん で 来 た まま に 堀木 の 住所 と 姓名 を 、 用箋 の 端 に したため た まで の 事 だっ た の です 。 
自分 は ヒラメ の 家 を 出 て 、 新宿 まで 歩き 、 懐中 の 本 を 売り 、 そうして 、 やっぱり 途方 に くれ て しまい まし た 。 自分 は 、 皆 に あいそ が いい かわり に 、 「 友情 」 という もの を 、 いちど も 実感 し た 事 が 無く 、 堀木 の よう な 遊び 友達 は 別 として 、 いっさい の 附き 合い は 、 ただ 苦痛 を 覚える ばかり で 、 その 苦痛 を もみ ほぐそ う として 懸命 に お 道化 を 演じ て 、 かえって 、 へとへと に なり 、 わずか に 知合っ て いる ひと の 顔 を 、 それ に 似 た 顔 を さえ 、 往来 など で 見掛け て も 、 ぎょっと し て 、 一瞬 、 めまい する ほど の 不快 な 戦慄 に 襲わ れる 有様 で 、 人 に 好か れる 事 は 知っ て い て も 、 人 を 愛する 能力 に 於い て は 欠け て いる ところ が ある よう でし た 。 （ もっとも 、 自分 は 、 世の中 の 人間 に だって 、 果して 、 「 愛 」 の 能力 が ある の か どう か 、 たいへん 疑問 に 思っ て い ます ） その よう な 自分 に 、 所 謂 「 親友 」 など 出来る 筈 は 無く 、 そのうえ 自分 に は 、 「 訪問 」 の 能力 さえ 無かっ た の です 。 他人 の 家 の 門 は 、 自分 にとって 、 あの 神 曲 の 地獄 の 門 以上 に 薄 気味 わるく 、 その 門 の 奥 に は 、 おそろしい 竜 みたい な 生臭い 奇 獣 が うごめい て いる 気配 を 、 誇張 で なし に 、 実感 せら れ て い た の です 。 
誰 と も 、 附き 合い が 無い 。 どこ へ も 、 訪ね て 行け ない 。 
堀木 。 
それ こそ 、 冗談 から 駒 が 出 た 形 でし た 。 あの 置手紙 に 、 書い た とおり に 、 自分 は 浅草 の 堀木 を たずね て 行く 事 に し た の です 。 自分 は これ まで 、 自分 の ほう から 堀木 の 家 を たずね て 行っ た 事 は 、 いちど も 無く 、 たいてい 電報 で 堀木 を 自分 の ほう に 呼び寄せ て い た の です が 、 いま は その 電報 料 さえ 心細く 、 それ に 落ちぶれ た 身 の ひがみ から 、 電報 を 打っ た だけ で は 、 堀木 は 、 来 て くれ ぬ かも 知れ ぬ と 考え て 、 何 より も 自分 に 苦手 の 「 訪問 」 を 決意 し 、 溜息 を つい て 市電 に 乗り 、 自分 にとって 、 この 世の中 で たった 一つ の 頼み の 綱 は 、 あの 堀木 な の か 、 と 思い知っ たら 、 何 か 脊筋 の 寒く なる よう な 凄 じい 気配 に 襲わ れ まし た 。 
堀木 は 、 在宅 でし た 。 汚い 露 路 の 奥 の 、 二 階 家 で 、 堀木 は 二 階 の たった 一 部屋 の 六 畳 を 使い 、 下 で は 、 堀木 の 老 父母 と 、 それ から 若い 職人 と 三 人 、 下駄 の 鼻緒 を 縫っ たり 叩い たり し て 製造 し て いる の でし た 。 
堀木 は 、 その 日 、 彼 の 都会人 として の 新しい 一 面 を 自分 に 見せ て くれ まし た 。 それ は 、 俗 に いう チャッカリ 性 でし た 。 田舎 者 の 自分 が 、 愕然 と 眼 を みはっ た くらい の 、 冷たく 、 ずるい エゴイズム でし た 。 自分 の よう に 、 ただ 、 とめどなく 流れる たち の 男 で は 無かっ た の です 。 
「 お前 に は 、 全く 呆れ た 。 親爺 さん から 、 お許し が 出 た か ね 。 まだ かい 」 
逃げ て 来 た 、 と は 、 言え ませ ん でし た 。 
自分 は 、 れい に 依っ て 、 ごまかし まし た 。 いま に 、 すぐ 、 堀木 に 気附 かれる に 違い ない のに 、 ごまかし まし た 。 
「 それ は 、 どうにか なる さ 」 
「 おい 、 笑いごと じゃ 無い ぜ 。 忠告 する けど 、 馬鹿 も この へん で やめる ん だ な 。 おれ は 、 きょう は 、 用事 が ある ん だ が ね 。 この 頃 、 ばか に いそがしい ん だ 」 
「 用事 って 、 どんな ？ 」 
「 おい 、 おい 、 座蒲団 の 糸 を 切ら ない で くれ よ 」 
自分 は 話 を し ながら 、 自分 の 敷い て いる 座蒲団 の 綴 糸 という の か 、 くくり 紐 という の か 、 あの 総 の よう な 四隅 の 糸 の 一つ を 無意識 に 指先 で もてあそび 、 ぐいと 引っぱっ たり など し て い た の でし た 。 堀木 は 、 堀木 の 家 の 品物 なら 、 座蒲団 の 糸 一 本 でも 惜しい らしく 、 恥じる 色 も 無く 、 それ こそ 、 眼 に 角 を 立て て 、 自分 を とがめる の でし た 。 考え て みる と 、 堀木 は 、 これ まで 自分 と の 附 合い に 於い て 何一つ 失っ て は い なかっ た の です 。 
堀木 の 老母 が 、 お しるこ を 二つ お盆 に 載せ て 持っ て 来 まし た 。 
「 あ 、 これ は 」 
と 堀木 は 、 しん から の 孝行 息子 の よう に 、 老母 に 向っ て 恐縮 し 、 言葉づかい も 不自然 な くらい 丁寧 に 、 
「 すみません 、 お しるこ です か 。 豪気 だ なあ 。 こんな 心配 は 、 要ら なかっ た ん です よ 。 用事 で 、 すぐ 外出 し なけれ ゃいけないんですから 。 いいえ 、 でも 、 せっかく の 御 自慢 の お しるこ を 、 もったいない 。 いただき ます 。 お前 も 一つ 、 どう だい 。 おふくろ が 、 わざわざ 作っ て くれ た ん だ 。 ああ 、 こいつ あ 、 うめ え や 。 豪気 だ なあ 」 
と 、 まんざら 芝居 で も 無い みたい に 、 ひどく 喜び 、 おいし そう に 食べる の です 。 自分 も それ を 啜り まし た が 、 お湯 の におい が し て 、 そうして 、 お 餅 を たべ たら 、 それ は お 餅 で なく 、 自分 に は わから ない もの でし た 。 決して 、 その 貧し さ を 軽蔑 し た の で は あり ませ ん 。 （ 自分 は 、 その 時 それ を 、 不味い と は 思い ませ ん でし た し 、 また 、 老母 の 心 づくし も 身 に しみ まし た 。 自分 に は 、 貧し さ へ の 恐怖 感 は あっ て も 、 軽蔑 感 は 、 無い つもり で い ます ） あの お しるこ と 、 それから 、 その お しるこ を 喜ぶ 堀木 に 依っ て 、 自分 は 、 都会人 の つましい 本性 、 また 、 内 と 外 を ちゃんと 区別 し て いとなん で いる 東京 の 人 の 家庭 の 実体 を 見せつけ られ 、 内 も 外 も 変り なく 、 ただ のべつ 幕 無し に 人間 の 生活 から 逃げ 廻っ て ばかり いる 薄馬鹿 の 自分 ひとり だけ 完全 に 取 残さ れ 、 堀木 に さえ 見捨て られ た よう な 気配 に 、 狼狽 し 、 お しるこ の はげ た 塗 箸 を あつかい ながら 、 たまらなく 侘び しい 思い を し た という 事 を 、 記し て 置き たい だけ な の です 。 
「 わるい けど 、 おれ は 、 きょう は 用事 が ある ん で ね 」 
堀木 は 立っ て 、 上衣 を 着 ながら そう 言い 、 
「 失敬 する ぜ 、 わるい けど 」 
その 時 、 堀木 に 女 の 訪問 者 が あり 、 自分 の 身の上 も 急転 し まし た 。 
堀木 は 、 にわかに 活気づい て 、 
「 や 、 すみません 。 いま ね 、 あなた の ほう へ お 伺い しよ う と 思っ て い た の です が ね 、 この ひと が 突然 やって来 て 、 いや 、 かまわ ない ん です 。 さあ 、 どうぞ 」 
よほど 、 あわて て いる らしく 、 自分 が 自分 の 敷い て いる 座蒲団 を はずし て 裏 が え し に し て 差し出し た の を 引っ たくっ て 、 また 裏がえ し に し て 、 その 女 の ひと に すすめ まし た 。 部屋 に は 、 堀木 の 座蒲団 の 他 に は 、 客 座蒲団 が たった 一 枚 しか 無かっ た の です 。 
女 の ひと は 痩せ て 、 脊 の 高い ひと でし た 。 その 座蒲団 は 傍 に のけ て 、 入口 ちかく の 片隅 に 坐り まし た 。 
自分 は 、 ぼんやり 二 人 の 会話 を 聞い て い まし た 。 女 は 雑誌 社 の ひと の よう で 、 堀木 に カット だ か 、 何だか を かね て 頼ん で い た らしく 、 それ を 受取り に 来 た みたい な 具合い でし た 。 
「 いそぎ ます ので 」 
「 出来 て い ます 。 もう とっくに 出来 て い ます 。 これ です 、 どうぞ 」 
電報 が 来 まし た 。 
堀木 が 、 それ を 読み 、 上機嫌 の その 顔 が みるみる 険悪 に なり 、 
「 ち ぇっ ！ 　 お前 、 こりゃ 、 どう し た ん だい 」 
ヒラメ から の 電報 でし た 。 
「 とにかく 、 すぐ に 帰っ て くれ 。 おれ が 、 お前 を 送り とどける と いい ん だろ う が 、 おれ に は いま 、 そんな ひま は 、 無 え や 。 家出 し て い ながら 、 その 、 のんき そう な 面 っ たら 」 
「 お 宅 は 、 どちら な の です か ？ 」 
「 大久保 です 」 
ふい と 答え て しまい まし た 。 
「 そん なら 、 社 の 近く です から 」 
女 は 、 甲州 の 生れ で 二 十 八 歳 でし た 。 五つ に なる 女児 と 、 高円寺 の アパート に 住ん で い まし た 。 夫 と 死別 し て 、 三 年 に なる と 言っ て い まし た 。 
「 あなた は 、 ずいぶん 苦労 し て 育っ て 来 た みたい な ひと ね 。 よく 気 が きく わ 。 可哀そう に 」 
はじめて 、 男 め かけ みたい な 生活 を し まし た 。 シヅ子 （ という の が 、 その 女 記者 の 名前 でし た ） が 新宿 の 雑誌 社 に 勤め に 出 た あと は 、 自分 と それから シゲ子 という 五つ の 女児 と 二 人 、 おとなしく お 留守番 という 事 に なり まし た 。 それ まで は 、 母 の 留守 に は 、 シゲ子 は アパート の 管理 人 の 部屋 で 遊ん で い た よう でし た が 、 「 気 の きく 」 おじさん が 遊び 相手 として 現われ た ので 、 大いに 御機嫌 が いい 様子 でし た 。 
一 週間 ほど 、 ぼんやり 、 自分 は そこ に い まし た 。 アパート の 窓 の すぐ 近く の 電線 に 、 奴凧 が 一つ ひっ から まっ て い て 、 春 の ほこり 風 に 吹か れ 、 破ら れ 、 それでも なかなか 、 し つっ こく 電線 に からみつい て 離れ ず 、 何やら 首肯い たり なんか し て いる ので 、 自分 は それ を 見る 度 毎 に 苦笑 し 、 赤面 し 、 夢 に さえ 見 て 、 うなされ まし た 。 
「 お金 が 、 ほしい な 」 
「 … … いくら 位 ？ 」 
「 たくさん 。 … … 金 の 切れ目 が 、 縁 の 切れ目 、 って 、 本当 の 事 だ よ 」 
「 ばか らしい 。 そんな 、 古くさい 、 … … 」 
「 そう ？ 　 しかし 、 君 に は 、 わから ない ん だ 。 この まま で は 、 僕 は 、 逃げる 事 に なる かも 知れ ない 」 
「 いったい 、 どっち が 貧乏 な の よ 。 そうして 、 どっち が 逃げる の よ 。 へん ねえ 」 
「 自分 で かせい で 、 その お金 で 、 お 酒 、 いや 、 煙草 を 買い たい 。 絵 だって 僕 は 、 堀木 なんか より 、 ずっと 上手 な つもり な ん だ 」 
この よう な 時 、 自分 の 脳裡 に おのずから 浮びあがっ て 来る もの は 、 あの 中学 時代 に 画い た 竹 一 の 所 謂 「 お化け 」 の 、 数 枚 の 自画像 でし た 。 失わ れ た 傑作 。 それ は 、 たびたび の 引越し の 間 に 、 失わ れ て しまっ て い た の です が 、 あれ だけ は 、 たしかに 優れ て いる 絵 だっ た よう な 気 が する の です 。 その後 、 さまざま 画い て み て も 、 その 思い出 の 中 の 逸品 に は 、 遠く 遠く 及ば ず 、 自分 は いつも 、 胸 が からっぽ に なる よう な 、 だるい 喪失 感 に なやまさ れ 続け て 来 た の でし た 。 
飲み 残し た 一 杯 の アブサン 。 
自分 は 、 その 永遠 に 償い 難い よう な 喪失 感 を 、 こっそり そう 形容 し て い まし た 。 絵 の 話 が 出る と 、 自分 の 眼前 に 、 その 飲み 残し た 一 杯 の アブサン が ちらつい て 来 て 、 ああ 、 あの 絵 を この ひと に 見せ て やり たい 、 そうして 、 自分 の 画才 を 信じ させ たい 、 という 焦燥 に もだえる の でし た 。 
「 ふ ふ 、 どう だ か 。 あなた は 、 まじめ な 顔 を し て 冗談 を 言う から 可愛い 」 
冗談 で は ない の だ 、 本当 な ん だ 、 ああ 、 あの 絵 を 見せ て やり たい 、 と 空転 の 煩悶 を し て 、 ふい と 気 を かえ 、 あきらめ て 、 
「 漫画 さ 。 すくなくとも 、 漫画 なら 、 堀木 より は 、 うまい つもり だ 」 
その 、 ごまかし の 道化 の 言葉 の ほう が 、 かえって まじめ に 信ぜ られ まし た 。 
「 そう ね 。 私 も 、 実は 感心 し て い た の 。 シゲ子 に いつも かい て やっ て いる 漫画 、 つい 私 まで 噴き出し て しまう 。 やっ て み たら 、 どう ？ 　 私 の 社 の 編輯 長 に 、 たのん で み て あげ て も いい わ 」 
その 社 で は 、 子供 相手 の あまり 名前 を 知ら れ て い ない 月刊 の 雑誌 を 発行 し て い た の でし た 。 
… … あなた を 見る と 、 たいてい の 女 の ひと は 、 何 か し て あげ たく て 、 たまらなく なる 。 … … いつも 、 おどおど し て い て 、 それでいて 、 滑稽 家 な ん だ もの 。 … … 時たま 、 ひとり で 、 ひどく 沈ん で いる けれども 、 その さま が 、 いっそう 女 の ひと の 心 を 、 かゆ がら せる 。 
シヅ子 に 、 その ほか さまざま の 事 を 言わ れ て 、 おだて られ て も 、 それ が 即ち 男 め かけ の けがらわしい 特質 な の だ 、 と 思え ば 、 それ こそ いよいよ 「 沈む 」 ばかり で 、 一向に 元気 が 出 ず 、 女 より は 金 、 とにかく シヅ子 から のがれ て 自活 し たい と ひそか に 念じ 、 工夫 し て いる ものの 、 かえって だんだん シヅ子 に たよら なけれ ば なら ぬ 破 目 に なっ て 、 家出 の 後 仕 末 やら 何やら 、 ほとんど 全部 、 この 男 まさり の 甲州 女 の 世話 を 受け 、 いっそう 自分 は 、 シヅ子 に対し 、 所 謂 「 おどおど 」 し なけれ ば なら ぬ 結果 に なっ た の でし た 。 
シヅ子 の 取計らい で 、 ヒラメ 、 堀木 、 それに シヅ子 、 三 人 の 会談 が 成立 し て 、 自分 は 、 故郷 から 全く 絶縁 せら れ 、 そうして シヅ子 と 「 天下 晴れ て 」 同棲 という 事 に なり 、 これ また 、 シヅ子 の 奔走 の おかげ で 自分 の 漫画 も 案外 お金 に なっ て 、 自分 は その お金 で 、 お 酒 も 、 煙草 も 買い まし た が 、 自分 の 心細 さ 、 うっとうし さ は 、 いよいよ つのる ばかり な の でし た 。 それ こそ 「 沈み 」 に 「 沈み 」 切っ て 、 シヅ子 の 雑誌 の 毎月 の 連載 漫画 「 キンタ さん と オタ さん の 冒険 」 を 画い て いる と 、 ふい と 故郷 の 家 が 思い出さ れ 、 あまり の 侘び し さ に 、 ペン が 動か なく なり 、 うつむい て 涙 を こぼし た 事 も あり まし た 。 
そういう 時 の 自分 にとって 、 幽か な 救い は 、 シゲ子 でし た 。 シゲ子 は 、 その 頃 に なっ て 自分 の 事 を 、 何 も こだわら ず に 「 お父ちゃん 」 と 呼ん で い まし た 。 
「 お父ちゃん 。 お祈り を する と 、 神様 が 、 何 でも 下さる って 、 ほんとう ？ 」 
自分 こそ 、 その お祈り を し たい と 思い まし た 。 
ああ 、 われ に 冷 き 意志 を 与え 給え 。 われ に 、 「 人間 」 の 本質 を 知ら しめ 給え 。 人 が 人 を 押しのけ て も 、 罪 なら ず や 。 われ に 、 怒り の マスク を 与え 給え 。 
「 うん 、 そう 。 シゲ ちゃん に は 何 でも 下さる だろ う けれども 、 お父ちゃん に は 、 駄目 かも 知れ ない 」 
自分 は 神 に さえ 、 おびえ て い まし た 。 神 の 愛 は 信ぜ られ ず 、 神 の 罰 だけ を 信じ て いる の でし た 。 信仰 。 それ は 、 ただ 神 の 笞 を 受ける ため に 、 うなだれ て 審判 の 台 に 向う 事 の よう な 気 が し て いる の でし た 。 地獄 は 信ぜ られ て も 、 天国 の 存在 は 、 どうしても 信ぜ られ なかっ た の です 。 
「 どうして 、 ダメ な の ？ 」 
「 親 の 言いつけ に 、 そむい た から 」 
「 そう ？ 　 お父ちゃん は とても いい ひと だって 、 みんな 言う けど な 」 
それ は 、 だまし て いる から だ 、 この アパート の 人 たち 皆 に 、 自分 が 好意 を 示さ れ て いる の は 、 自分 も 知っ て いる 、 しかし 、 自分 は 、 どれほど 皆 を 恐怖 し て いる か 、 恐怖 すれ ば する ほど 好か れ 、 そうして 、 こちら は 好か れる と 好か れる ほど 恐怖 し 、 皆 から 離れ て 行か ね ば なら ぬ 、 この 不幸 な 病癖 を 、 シゲ子 に 説明 し て 聞か せる の は 、 至難 の 事 でし た 。 
「 シゲ ちゃん は 、 いったい 、 神様 に 何 を お ねだり し たい の ？ 」 
自分 は 、 何気無 さ そう に 話頭 を 転じ まし た 。 
「 シゲ子 はね 、 シゲ子 の 本当 の お父ちゃん が ほしい の 」 
ぎょっと し て 、 くらくら 目まい し まし た 。 敵 。 自分 が シゲ子 の 敵 な の か 、 シゲ子 が 自分 の 敵 な の か 、 とにかく 、 ここ に も 自分 を おびやかす おそろしい 大人 が い た の だ 、 他人 、 不可解 な 他人 、 秘密 だらけ の 他人 、 シゲ子 の 顔 が 、 にわかに その よう に 見え て 来 まし た 。 
シゲ子 だけ は 、 と 思っ て い た のに 、 やはり 、 この 者 も 、 あの 「 不意 に 虻 を 叩き 殺す 牛 の しっぽ 」 を 持っ て い た の でし た 。 自分 は 、 それ 以来 、 シゲ子 に さえ おどおど し なけれ ば なら なく なり まし た 。 
「 色魔 ！ 　 いる かい ？ 」 
堀木 が 、 また 自分 の ところ へ たずね て 来る よう に なっ て い た の です 。 あの 家出 の 日 に 、 あれ ほど 自分 を 淋しく さ せ た 男 な のに 、 それでも 自分 は 拒否 でき ず 、 幽か に 笑っ て 迎える の でし た 。 
「 お前 の 漫画 は 、 なかなか 人気 が 出 て いる そう じゃ ない か 。 アマチュア に は 、 こわい もの 知らず の 糞度胸 が ある から かなわ ねえ 。 しかし 、 油断 する な よ 。 デッサン が 、 ちっとも なっ て や し ない ん だ から 」 
お 師匠 みたい な 態度 を さえ 示す の です 。 自分 の あの 「 お化け 」 の 絵 を 、 こいつ に 見せ たら 、 どんな 顔 を する だろ う 、 と れい の 空転 の 身悶え を し ながら 、 
「 それ を 言っ て くれる な 。 ぎゃっという 悲鳴 が 出る 」 
堀木 は 、 いよいよ 得意 そう に 、 
「 世渡り の 才能 だけ で は 、 いつか は 、 ボロ が 出る から な 」 
世渡り の 才能 。 … … 自分 に は 、 ほんとう に 苦笑 の 他 は あり ませ ん でし た 。 自分 に 、 世渡り の 才能 ！ 　 しかし 、 自分 の よう に 人間 を おそれ 、 避け 、 ごまかし て いる の は 、 れい の 俗諺 の 「 さわら ぬ 神 に たたり なし 」 とかいう 怜悧 狡猾 の 処 生 訓 を 遵奉 し て いる の と 、 同じ 形 だ 、 という 事 に なる の でしょ う か 。 ああ 、 人間 は 、 お互い 何 も 相手 を わから ない 、 まるっきり 間違っ て 見 て い ながら 、 無二 の 親友 の つもり で い て 、 一生 、 それ に 気 附か ず 、 相手 が 死ね ば 、 泣い て 弔詞 なんか を 読ん で いる の で は ない でしょ う か 。 
堀木 は 、 何せ 、 （ それ は シヅ子 に 押し て たのま れ て しぶしぶ 引受け た に 違い ない の です が ） 自分 の 家出 の 後 仕 末 に 立ち合っ た ひと な ので 、 まるで もう 、 自分 の 更生 の 大 恩人 か 、 月下氷人 の よう に 振舞い 、 もっとも らしい 顔 を し て 自分 に お 説教 め いた事 を 言っ たり 、 また 、 深夜 、 酔っぱらっ て 訪問 し て 泊っ たり 、 また 、 五 円 （ きまって 五 円 でし た ） 借り て 行っ たり する の でし た 。 
「 しかし 、 お前 の 、 女 道楽 も この へん で よす ん だ ね 。 これ 以上 は 、 世間 が 、 ゆるさ ない から な 」 
世間 と は 、 いったい 、 何 の 事 でしょ う 。 人間 の 複数 でしょ う か 。 どこ に 、 その 世間 という もの の 実体 が ある の でしょ う 。 けれども 、 何しろ 、 強く 、 きびしく 、 こわい もの 、 と ばかり 思っ て これ まで 生き て 来 た の です が 、 しかし 、 堀木 に そう 言わ れ て 、 ふと 、 
「 世間 という の は 、 君 じゃ ない か 」 
という 言葉 が 、 舌 の 先 まで 出 かかっ て 、 堀木 を 怒ら せる の が イヤ で 、 ひっこめ まし た 。 
（ それ は 世間 が 、 ゆるさ ない ） 
（ 世間 じゃ ない 。 あなた が 、 ゆるさ ない の でしょ う ？ ） 
（ そんな 事 を する と 、 世間 から ひどい め に 逢う ぞ ） 
（ 世間 じゃ ない 。 あなた でしょ う ？ ） 
（ いま に 世間 から 葬ら れる ） 
（ 世間 じゃ ない 。 葬 むるのは 、 あなた でしょ う ？ ） 
汝 は 、 汝 個人 の おそろし さ 、 怪奇 、 悪辣 、 古狸 性 、 妖婆性 を 知れ ！ 　 など と 、 さまざま の 言葉 が 胸中 に 去来 し た の です が 、 自分 は 、 ただ 顔 の 汗 を ハンケチ で 拭い て 、 
「 冷汗 、 冷汗 」 
と 言っ て 笑っ た だけ でし た 。 
けれども 、 その 時 以来 、 自分 は 、 （ 世間 と は 個人 じゃ ない か ） という 、 思想 めい た もの を 持つ よう に なっ た の です 。 
そうして 、 世間 という もの は 、 個人 で は なかろ う か と 思い はじめ て から 、 自分 は 、 いま まで より は 多少 、 自分 の 意志 で 動く 事 が 出来る よう に なり まし た 。 シヅ子 の 言葉 を 借り て 言え ば 、 自分 は 少し わがまま に なり 、 おどおど し なく なり まし た 。 また 、 堀木 の 言葉 を 借り て 言え ば 、 へん に ケチ に なり まし た 。 また 、 シゲ子 の 言葉 を 借り て 言え ば 、 あまり シゲ子 を 可愛がら なく なり まし た 。 
無口 で 、 笑わ ず 、 毎日 々 々 、 シゲ子 の おもり を し ながら 、 「 キンタ さん と オタ さん の 冒険 」 やら 、 また ノンキ な トウ サン の 歴然たる 亜流 の 「 ノンキ 和尚 」 やら 、 また 、 「 セッカチピンチャン 」 という 自分 ながら わけ の わから ぬ ヤケクソ の 題 の 連載 漫画 やら を 、 各社 の 御 注文 （ ぽつりぽつり 、 シヅ子 の 社 の 他 から も 注文 が 来る よう に なっ て い まし た が 、 すべて それ は 、 シヅ子 の 社 より も 、 もっと 下品 な 謂わ ば 三流 出版 社 から の 注文 ばかり でし た ） に 応じ 、 実に 実に 陰鬱 な 気持 で 、 のろのろ と 、 （ 自分 の 画 の 運筆 は 、 非常 に おそい ほう でし た ） いま は ただ 、 酒代 が ほしい ばかり に 画い て 、 そうして 、 シヅ子 が 社 から 帰る と それ と 交代 に ぷいと 外 へ 出 て 、 高円寺 の 駅 近く の 屋台 や スタンド・バア で 安く て 強い 酒 を 飲み 、 少し 陽気 に なっ て アパート へ 帰り 、 
「 見れ ば 見る ほど 、 へん な 顔 を し て いる ねえ 、 お前 は 。 ノンキ 和尚 の 顔 は 、 実は 、 お前 の 寝顔 から ヒント を 得 た の だ 」 
「 あなた の 寝顔 だって 、 ずいぶん お 老け に なり まし て よ 。 四 十 男 みたい 」 
「 お前 の せい だ 。 吸い取ら れ た ん だ 。 水 の 流れ と 、 人 の 身 は あ サ 。 何 を くよくよ 川端 や なあ ぎい サ 」 
「 騒が ない で 、 早く おやすみなさい よ 。 それとも 、 ごはん を あがり ます か ？ 」 
落ちつい て い て 、 まるで 相手 に し ませ ん 。 
「 酒 なら 飲む が ね 。 水 の 流れ と 、 人 の 身 は あ サ 。 人 の 流れ と 、 いや 、 水 の 流れ えと 、 水 の 身 は あ サ 」 
唄い ながら 、 シヅ子 に 衣服 を ぬがせ られ 、 シヅ子 の 胸 に 自分 の 額 を 押しつけ て 眠っ て しまう 、 それ が 自分 の 日常 でし た 。 
し て その 翌日 も 同じ 事 を 繰返し て 、 
昨日 に 異 ら ぬ 慣例 に 従え ば よい 。 
即ち 荒っぽい 大きな 歓楽 を 避け て さえ いれ ば 、 
自然 また 大きな 悲哀 も やって来 ない の だ 。 
ゆく て を 塞ぐ 邪魔 な 石 を 
蟾蜍 は 廻っ て 通る 。 
上田 敏 訳 の ギイ・シャルル・クロオ とかいう ひと の 、 こんな 詩句 を 見つけ た 時 、 自分 は ひとり で 顔 を 燃える くらい に 赤く し まし た 。 
蟾蜍 。 
（ それ が 、 自分 だ 。 世間 が ゆるす も 、 ゆるさ ぬ も ない 。 葬 むるも 、 葬 むら ぬ も ない 。 自分 は 、 犬 より も 猫 より も 劣等 な 動物 な の だ 。 蟾蜍 。 のそのそ 動い て いる だけ だ ） 
自分 の 飲酒 は 、 次第に 量 が ふえ て 来 まし た 。 高円寺 駅 附近 だけ で なく 、 新宿 、 銀座 の ほう に まで 出かけ て 飲み 、 外泊 する 事 さえ あり 、 ただ もう 「 慣例 」 に 従わ ぬ よう 、 バア で 無頼漢 の 振り を し たり 、 片端 から キス し たり 、 つまり 、 また 、 あの 情死 以前 の 、 いや 、 あの 頃 より さらに 荒ん で 野卑 な 酒飲み に なり 、 金 に 窮 し て 、 シヅ子 の 衣類 を 持ち出す ほど に なり まし た 。 
ここ へ 来 て 、 あの 破れ た 奴凧 に 苦笑 し て から 一 年 以上 経っ て 、 葉桜 の 頃 、 自分 は 、 またも シヅ子 の 帯 やら 襦袢 やら を こっそり 持ち出し て 質屋 に 行き 、 お金 を 作っ て 銀座 で 飲み 、 二 晩 つづけ て 外泊 し て 、 三 日 目 の 晩 、 さすが に 具合い 悪い 思い で 、 無意識 に 足音 を しのば せ て 、 アパート の シヅ子 の 部屋 の 前 まで 来る と 、 中 から 、 シヅ子 と シゲ子 の 会話 が 聞え ます 。 
「 なぜ 、 お 酒 を 飲む の ？ 」 
「 お父ちゃん はね 、 お 酒 を 好き で 飲ん で いる の で は 、 ない ん です よ 。 あんまり いい ひと だ から 、 だから 、 … … 」 
「 いい ひと は 、 お 酒 を 飲む の ？ 」 
「 そう でも ない けど 、 … … 」 
「 お父ちゃん は 、 きっと 、 びっくり する わ ね 」 
「 お きらい かも 知れ ない 。 ほら 、 ほら 、 箱 から 飛び出し た 」 
「 セッカチピンチャン みたい ね 」 
「 そう ねえ 」 
シヅ子 の 、 しん から 幸福 そう な 低い 笑い声 が 聞え まし た 。 
自分 が 、 ドア を 細く あけ て 中 を のぞい て 見 ます と 、 白兎 の 子 でし た 。 ぴょんぴょん 部屋 中 を 、 はね 廻り 、 親子 は それ を 追って い まし た 。 
（ 幸福 な ん だ 、 この 人 たち は 。 自分 という 馬鹿 者 が 、 この 二 人 の あいだ に は いっ て 、 いま に 二 人 を 滅茶苦茶 に する の だ 。 つつましい 幸福 。 いい 親子 。 幸福 を 、 ああ 、 もし 神様 が 、 自分 の よう な 者 の 祈り でも 聞い て くれる なら 、 いちど だけ 、 生涯 に いちど だけ で いい 、 祈る ） 
自分 は 、 そこ に うずくまっ て 合掌 し たい 気持 でし た 。 そっと 、 ドア を 閉め 、 自分 は 、 また 銀座 に 行き 、 それ っきり 、 その アパート に は 帰り ませ ん でし た 。 
そうして 、 京橋 の すぐ 近く の スタンド・バア の 二 階 に 自分 は 、 またも 男 め かけ の 形 で 、 寝そべる 事 に なり まし た 。 
世間 。 どうやら 自分 に も 、 それ が ぼんやり わかり かけ て 来 た よう な 気 が し て い まし た 。 個人 と 個人 の 争い で 、 しかも 、 その 場 の 争い で 、 しかも 、 その 場 で 勝て ば いい の だ 、 人間 は 決して 人間 に 服従 し ない 、 奴隷 で さえ 奴隷 らしい 卑屈 な シッペ が え し を する もの だ 、 だから 、 人間 に は その 場 の 一本勝負 に たよる 他 、 生き 伸びる 工夫 が つか ぬ の だ 、 大義名分 らしい もの を 称え て い ながら 、 努力 の 目標 は 必ず 個人 、 個人 を 乗り越え て また 個人 、 世間 の 難解 は 、 個人 の 難解 、 大洋 は 世間 で なく て 、 個人 な の だ 、 と 世の中 という 大海 の 幻影 に おびえる 事 から 、 多少 解放 せら れ て 、 以前 ほど 、 あれこれ と 際限 の 無い 心遣い する 事 なく 、 謂わ ば 差し当っ て の 必要 に 応じ て 、 いくぶん 図々しく 振舞う 事 を 覚え て 来 た の です 。 
高円寺 の アパート を 捨て 、 京橋 の スタンド・バア の マダム に 、 
「 わかれ て 来 た 」 
それだけ 言っ て 、 それで 充分 、 つまり 一 本 勝負 は きまっ て 、 その 夜 から 、 自分 は 乱暴 に も そこ の 二 階 に 泊り込む 事 に なっ た の です が 、 しかし 、 おそろしい 筈 の 「 世間 」 は 、 自分 に 何 の 危害 も 加え ませ ん でし た し 、 また 自分 も 「 世間 」 に対して 何 の 弁明 も し ませ ん でし た 。 マダム が 、 その 気 だっ たら 、 それで すべて が いい の でし た 。 
自分 は 、 その 店 の お客 の よう で も あり 、 亭主 の よう で も あり 、 走り 使い の よう で も あり 、 親戚 の 者 の よう で も あり 、 はた から 見 て 甚だ 得 態 の 知れ ない 存在 だっ た 筈 な のに 、 「 世間 」 は 少し も あやしま ず 、 そうして その 店 の 常連 たち も 、 自分 を 、 葉 ちゃん 、 葉 ちゃん と 呼ん で 、 ひどく 優しく 扱い 、 そうして お 酒 を 飲ま せ て くれる の でし た 。 
自分 は 世の中 に対して 、 次第に 用心 し なく なり まし た 。 世の中 という ところ は 、 そんなに 、 おそろしい ところ で は 無い 、 と 思う よう に なり まし た 。 つまり 、 これ まで の 自分 の 恐怖 感 は 、 春の 風 に は 百日咳 の 黴菌 が 何 十 万 、 銭湯 に は 、 目 の つぶれる 黴菌 が 何 十 万 、 床屋 に は 禿頭 病 の 黴菌 が 何 十 万 、 省線 の 吊 皮 に は 疥癬 の 虫 が うようよ 、 または 、 お さ しみ 、 牛 豚肉 の 生焼け に は 、 さ な だ 虫 の 幼虫 やら 、 ジストマ やら 、 何やら の 卵 など が 必ず ひそん で い て 、 また 、 はだし で 歩く と 足 の 裏 から ガラス の 小さい 破片 が はいっ て 、 その 破片 が 体内 を 駈け めぐり 眼 玉 を 突い て 失明 さ せる 事 も ある とかいう 謂わ ば 「 科学 の 迷信 」 に おびやかさ れ て い た よう な もの な の でし た 。 それ は 、 たしかに 何 十 万 も の 黴菌 の 浮び 泳ぎ うごめい て いる の は 、 「 科学 的 」 に も 、 正確 な 事 でしょ う 。 と 同時に 、 その 存在 を 完全 に 黙殺 さえ すれ ば 、 それ は 自分 と みじん の つながり も 無くなっ て たちまち 消え失せる 「 科学 の 幽霊 」 に 過ぎ ない の だ という 事 を も 、 自分 は 知る よう に なっ た の です 。 お 弁当 箱 に 食べ 残し の ごはん 三 粒 、 千 万 人 が 一 日 に 三 粒 ずつ 食べ 残し て も 既に それ は 、 米 何 俵 を むだ に 捨て た 事 に なる 、 とか 、 或いは 、 一 日 に 鼻紙 一 枚 の 節約 を 千 万 人 が 行う なら ば 、 どれ だけ の パルプ が 浮く か 、 など という 「 科学 的 統計 」 に 、 自分 は 、 どれ だけ おびやかさ れ 、 ごはん を 一 粒 でも 食べ 残す 度 毎 に 、 また 鼻 を かむ 度 毎 に 、 山 ほど の 米 、 山 ほど の パルプ を 空費 する よう な 錯覚 に 悩み 、 自分 が いま 重大 な 罪 を 犯し て いる みたい な 暗い 気持 に なっ た もの です が 、 しかし 、 それ こそ 「 科学 の 嘘 」 「 統計 の 嘘 」 「 数学 の 嘘 」 で 、 三 粒 の ごはん は 集め られる もの で なく 、 掛算 割算 の 応用 問題 として も 、 まことに 原始 的 で 低能 な テーマ で 、 電気 の ついて ない 暗い お 便所 の 、 あの 穴 に 人 は 何 度 に いちど 片 脚 を 踏みはずし て 落下 さ せる か 、 または 、 省線 電車 の 出入口 と 、 プラットホーム の 縁 と の あの 隙間 に 、 乗客 の 何 人 中 の 何 人 が 足 を 落とし込む か 、 そんな プロバビリティ を 計算 する の と 同じ 程度 に ばからしく 、 それ は 如何 に も 有り得る 事 の よう で も あり ながら 、 お 便所 の 穴 を またぎ そこね て 怪我 を し た という 例 は 、 少し も 聞か ない し 、 そんな 仮説 を 「 科学 的 事実 」 として 教え 込ま れ 、 それ を 全く 現実 として 受取り 、 恐怖 し て い た 昨日 まで の 自分 を いとおしく 思い 、 笑い たく 思っ た くらい に 、 自分 は 、 世の中 という もの の 実体 を 少し ずつ 知っ て 来 た という わけ な の でし た 。 
そう は 言っ て も 、 やはり 人間 という もの が 、 まだまだ 、 自分 に は おそろしく 、 店 の お客 と 逢う の に も 、 お 酒 を コップ で 一杯 ぐいと 飲ん で から で なけれ ば いけ ませ ん でし た 。 こわい もの 見 た さ 。 自分 は 、 毎晩 、 それでも お 店 に 出 て 、 子供 が 、 実は 少し こわがっ て いる 小 動物 など を 、 かえって 強く ぎゅっと 握っ て しまう みたい に 、 店 の お客 に 向っ て 酔っ て つたない 芸術 論 を 吹きかける よう に さえ なり まし た 。 
漫画 家 。 ああ 、 しかし 、 自分 は 、 大きな 歓楽 も 、 また 、 大きな 悲哀 も ない 無名 の 漫画 家 。 いかに 大きな 悲哀 が あと で やって来 て も いい 、 荒っぽい 大きな 歓楽 が 欲しい と 内心 あせっ て は い て も 、 自分 の 現在 の よろこび たる や 、 お客 と むだ 事 を 言い合い 、 お客 の 酒 を 飲む 事 だけ でし た 。 
京橋 へ 来 て 、 こういう くだらない 生活 を 既に 一 年 ちかく 続け 、 自分 の 漫画 も 、 子供 相手 の 雑誌 だけ で なく 、 駅売り の 粗悪 で 卑猥 な 雑誌 など に も 載る よう に なり 、 自分 は 、 上司 幾 太 （ 情死 、 生き た ） という 、 ふざけ 切っ た 匿名 で 、 汚い は だ か の 絵 など 画き 、 それ に たいてい ルバイヤット の 詩句 を 插入 し まし た 。 
無駄 な 御 祈り なんか 止 せっ たら 
涙 を 誘う もの なんか 　 かなぐりすてろ 
まア 一 杯 いこう 　 好い こと ばかり 思出 し て 
よけい な 心づかい なんか 忘れ っ ちまい な 
不安 や 恐怖 もて 人 を 脅 やかす 奴輩 は 
自 の 作り し 大 それ た 罪 に 怯え 
死に し もの の 復讐 に 備え ん と 
自 の 頭 に たえず 計 い を 為す 
よべ 　 酒 充ち て 我 ハート は 喜び に 充ち 
けさ 　 さめ て 只 に 荒涼 
いぶかし 　 一夜さ の 中 
様変り たる 此気分 よ 
祟り なんて 思う こと 止め て くれ 
遠く から 響く 太鼓 の よう に 
何がなし そいつ は 不安 だ 
屁 ひっ た こと 迄 一々 罪 に 勘定 さ れ たら 助から ん わい 
正義 は 人生 の 指針 たり と や ？ 
さらば 血 に 塗ら れ たる 戦場 に 
暗殺 者 の 切 尖 に 
何 の 正義 か 宿れる や ？ 
い ず こ に 指導原理 あり や ？ 
いかなる 叡智 の 光 あり や ？ 
美 わし くも 怖し き は 浮世 なれ 
かよわき 人 の 子 は 背負 切れ ぬ 荷 を ば 負わさ れ 
どうにも でき ない 情慾 の 種子 を 植え つけ られ た 許 り に 
善 だ 悪 だ 罪 だ 罰 だ と 呪わ るる ばかり 
どうにも でき ない 只 まごつく ばかり 
抑え 摧 く 力 も 意志 も 授け られ ぬ 許 り に 
どこ を どう 彷徨 まわっ て たん だい 
ナニ 批判 　 検討 　 再 認識 ？ 
ヘッ 　 空しき 夢 を 　 あり も し ない 幻 を 
エヘッ 　 酒 を 忘れ た んで 　 みんな 虚仮 の 思案 さ 
どう だ 　 此涯 も ない 大空 を 御覧 よ 
此中 に ポッチリ 浮ん だ 点 じゃ い 
此地球 が 何 んで 自転 する の か 分る もん か 
自転 　 公転 　 反転 も 勝手 です わい 
至る 処 に 　 至高 の 力 を 感じ 
あらゆる 国 に あらゆる 民族 に 
同一 の 人間 性 を 発見 する 
我 は 異端 者 なり とか や 
みんな 聖 経 を よみ 違え て ん の よ 
で なきゃ 常識 も 智慧 も ない の よ 
生身 の 喜び を 禁じ たり 　 酒 を 止め たり 
いい わ 　 ムスタッファ 　 わたし そんな の 　 大嫌い 
けれども 、 その 頃 、 自分 に 酒 を 止めよ 、 と すすめる 処女 が い まし た 。 
「 いけ ない わ 、 毎日 、 お昼 から 、 酔っ て いらっしゃる 」 
バア の 向い の 、 小さい 煙草 屋 の 十 七 、 八 の 娘 でし た 。 ヨシ ちゃん と 言い 、 色 の 白い 、 八重歯 の ある 子 でし た 。 自分 が 、 煙草 を 買い に 行く たび に 、 笑っ て 忠告 する の でし た 。 
「 なぜ 、 いけ ない ん だ 。 どうして 悪い ん だ 。 ある だけ の 酒 を のん で 、 人 の 子 よ 、 憎悪 を 消せ 消せ 消せ 、 って ね 、 むかし ペルシャ の ね 、 まあ よそ う 、 悲しみ 疲れ たる ハート に 希望 を 持ち 来す は 、 ただ 微醺 を もたらす 玉杯 なれ 、 って ね 。 わかる かい 」 
「 わから ない 」 
「 この 野郎 。 キス し て やる ぞ 」 
「 し て よ 」 
ちっとも 悪びれ ず 下 唇 を 突き出す の です 。 
「 馬鹿 野郎 。 貞操 観念 、 … … 」 
しかし 、 ヨシ ちゃん の 表情 に は 、 あきらか に 誰 に も 汚さ れ て い ない 処女 の におい が し て い まし た 。 
と し が 明け て 厳寒 の 夜 、 自分 は 酔っ て 煙草 を 買い に 出 て 、 その 煙草 屋 の 前 の マンホール に 落ち て 、 ヨシ ちゃん 、 たすけ て くれ え 、 と 叫び 、 ヨシ ちゃん に 引き上げ られ 、 右腕 の 傷 の 手当 を 、 ヨシ ちゃん に し て もらい 、 その 時 ヨシ ちゃん は 、 しみじみ 、 
「 飲み すぎ ます わ よ 」 
と 笑わ ず に 言い まし た 。 
自分 は 死ぬ の は 平気 な ん だ けど 、 怪我 を し て 出血 し て そうして 不具 者 など に なる の は 、 まっぴら ごめん の ほう です ので 、 ヨシ ちゃん に 腕 の 傷 の 手当 を し て もらい ながら 、 酒 も 、 もう いい加減 に よそ う かしら 、 と 思っ た の です 。 
「 やめる 。 あした から 、 一滴 も 飲ま ない 」 
「 ほんとう ？ 」 
「 きっと 、 やめる 。 やめ たら 、 ヨシ ちゃん 、 僕 の お 嫁 に なっ て くれる かい ？ 」 
しかし 、 お 嫁 の 件 は 冗談 でし た 。 
「 モチ よ 」 
モチ と は 、 「 勿論 」 の 略語 でし た 。 モボ だの 、 モガ だの 、 その 頃 いろんな 略語 が はやっ て い まし た 。 
「 ようし 。 ゲン マン しよ う 。 きっと やめる 」 
そうして 翌 る 日 、 自分 は 、 やはり 昼 から 飲み まし た 。 
夕方 、 ふらふら 外 へ 出 て 、 ヨシ ちゃん の 店 の 前 に 立ち 、 
「 ヨシ ちゃん 、 ごめん ね 。 飲ん じゃっ た 」 
「 あら 、 いや だ 。 酔っ た 振り なんか し て 」 
ハッ と し まし た 。 酔い も さめ た 気持 でし た 。 
「 いや 、 本当 な ん だ 。 本当に 飲ん だ の だ よ 。 酔っ た 振り なんか し てる ん じゃ ない 」 
「 からかわ ない で よ 。 ひと が わるい 」 
てんで 疑お う と し ない の です 。 
「 見れ ば わかり そう な もの だ 。 きょう も 、 お昼 から 飲ん だ の だ 。 ゆるし て ね 」 
「 お 芝居 が 、 うまい の ねえ 」 
「 芝居 じゃあ ない よ 、 馬鹿 野郎 。 キス し て やる ぞ 」 
「 し て よ 」 
「 いや 、 僕 に は 資格 が 無い 。 お 嫁 に もらう の も あきらめ なく ちゃ なら ん 。 顔 を 見 なさい 、 赤い だろ う ？ 　 飲ん だ の だ よ 」 
「 それ あ 、 夕陽 が 当っ て いる から よ 。 かつごう たっ て 、 だめ よ 。 きのう 約束 し た ん です もの 。 飲む 筈 が 無い じゃ ない の 。 ゲン マン し た ん です もの 。 飲ん だ なんて 、 ウソ 、 ウソ 、 ウソ 」 
薄暗い 店 の 中 に 坐っ て 微笑 し て いる ヨシ ちゃん の 白い 顔 、 ああ 、 よごれ を 知ら ぬ ヴァジニティ は 尊い もの だ 、 自分 は 今 まで 、 自分 より も 若い 処女 と 寝 た 事 が ない 、 結婚 しよ う 、 どんな 大きな 悲哀 が その ため に 後 から やって来 て も よい 、 荒っぽい ほど の 大きな 歓楽 を 、 生涯 に いちど で いい 、 処女 性 の 美し さ と は 、 それ は 馬鹿 な 詩人 の 甘い 感傷 の 幻 に 過ぎ ぬ と 思っ て い た けれども 、 やはり この 世の中 に 生き て 在る もの だ 、 結婚 し て 春 に なっ たら 二 人 で 自転車 で 青葉 の 滝 を 見 に 行こ う 、 と 、 その 場 で 決意 し 、 所 謂 「 一本勝負 」 で 、 その 花 を 盗む の に ためらう 事 を し ませ ん でし た 。 
そうして 自分 たち は 、 やがて 結婚 し て 、 それ に 依っ て 得 た 歓楽 は 、 必ずしも 大きく は あり ませ ん でし た が 、 その後 に 来 た 悲哀 は 、 凄惨 と 言っ て も 足り ない くらい 、 実に 想像 を 絶 し て 、 大きく やって来 まし た 。 自分 にとって 、 「 世の中 」 は 、 やはり 底 知れ ず 、 おそろしい ところ でし た 。 決して 、 そんな 一本勝負 など で 、 何 から 何 まで きまっ て しまう よう な 、 なまやさしい ところ で も 無かっ た の でし た 。 
堀木 と 自分 。 
互いに 軽蔑 し ながら 附き 合い 、 そうして 互いに 自ら を くだらなく し て 行く 、 それ が この世 の 所 謂 「 交友 」 という もの の 姿 だ と する なら 、 自分 と 堀木 と の 間柄 も 、 まさしく 「 交友 」 に 違い あり ませ ん でし た 。 
自分 が あの 京橋 の スタンド・バア の マダム の 義侠 心 に すがり 、 （ 女 の ひと の 義侠 心 なんて 、 言葉 の 奇妙 な 遣い 方 です が 、 しかし 、 自分 の 経験 に 依る と 、 少く とも 都会 の 男女 の 場合 、 男 より も 女 の ほう が 、 その 、 義侠 心 と で も いう べき もの を たっぷり と 持っ て い まし た 。 男 は たいてい 、 おっかなびっくり で 、 お てい さい ばかり 飾り 、 そうして 、 ケチ でし た ） あの 煙草 屋 の ヨシ子 を 内縁 の 妻 に する 事 が 出来 て 、 そうして 築地 、 隅田川 の 近く 、 木造 の 二 階 建て の 小さい アパート の 階下 の 一室 を 借り 、 ふたり で 住み 、 酒 は 止め て 、 そろそろ 自分 の 定 っ た 職業 に なり かけ て 来 た 漫画 の 仕事 に 精 を 出し 、 夕食 後 は 二 人 で 映画 を 見 に 出かけ 、 帰り に は 、 喫茶店 など に はいり 、 また 、 花 の 鉢 を 買っ たり し て 、 いや 、 それ より も 自分 を しん から 信頼 し て くれ て いる この 小さい 花嫁 の 言葉 を 聞き 、 動作 を 見 て いる の が 楽しく 、 これ は 自分 も ひょっとしたら 、 いま に だんだん 人間らしい もの に なる 事 が 出来 て 、 悲惨 な 死に 方 など せ ず に すむ の で は なかろ う か という 甘い 思い を 幽か に 胸 に あたため はじめ て い た 矢先 に 、 堀木 が また 自分 の 眼前 に 現われ まし た 。 
「 よう ！ 　 色魔 。 おや ？ 　 これ でも 、 いくら か 分別 くさい 顔 に なり や がっ た 。 きょう は 、 高円寺 女史 から の お 使者 な ん だ が ね 」 
と 言い かけ て 、 急 に 声 を ひそめ 、 お勝手 で お茶 の 仕度 を し て いる ヨシ子 の ほう を 顎 で しゃくっ て 、 大丈夫 かい ？ 　 と たずね ます ので 、 
「 かまわ ない 。 何 を 言っ て も いい 」 
と 自分 は 落ちつい て 答え まし た 。 
じっさい 、 ヨシ子 は 、 信頼 の 天才 と 言い たい くらい 、 京橋 の バア の マダム と の 間 は もとより 、 自分 が 鎌倉 で 起し た 事件 を 知らせ て やっ て も 、 ツネ子 と の 間 を 疑わ ず 、 それ は 自分 が 嘘 が うまい から と いう わけ で は 無く 、 時に は 、 あからさま な 言い方 を する 事 さえ あっ た のに 、 ヨシ子 に は 、 それ が みな 冗談 と しか 聞き とれ ぬ 様子 でし た 。 
「 相 変ら ず 、 しょっ て いやがる 。 なに 、 たいした 事 じゃ ない が ね 、 たま に は 、 高円寺 の ほう へ も 遊び に 来 て くれ っていう 御 伝言 さ 」 
忘れかける と 、 怪 鳥 が 羽ばたい て やっ て 来 て 、 記憶 の 傷口 を その 嘴 で 突き破り ます 。 たちまち 過去 の 恥 と 罪 の 記憶 が 、 ありあり と 眼前 に 展開 せら れ 、 わあ っと 叫び たい ほど の 恐怖 で 、 坐っ て おら れ なく なる の です 。 
「 飲も う か 」 
と 自分 。 
「 よし 」 
と 堀木 。 
自分 と 堀木 。 形 は 、 ふたり 似 て い まし た 。 そっくり の 人間 の よう な 気 が する 事 も あり まし た 。 もちろん それ は 、 安い 酒 を あちこち 飲み 歩い て いる 時 だけ の 事 でし た が 、 とにかく 、 ふたり 顔 を 合せる と 、 みるみる 同じ 形 の 同じ 毛並 の 犬 に 変り 降雪 の ちまた を 駈け めぐる という 具合い に なる の でし た 。 
その 日 以来 、 自分 たち は 再び 旧交 を あたため た という 形 に なり 、 京橋 の あの 小さい バア に も 一緒 に 行き 、 そうして 、 とうとう 、 高円寺 の シヅ子 の アパート に も その 泥酔 の 二 匹 の 犬 が 訪問 し 、 宿泊 し て 帰る など という 事 に さえ なっ て しまっ た の です 。 
忘れ も 、 し ませ ん 。 むし暑い 夏 の 夜 でし た 。 堀木 は 日暮 頃 、 よれよれ の 浴衣 を 着 て 築地 の 自分 の アパート に やって来 て 、 きょう 或 る 必要 が あっ て 夏服 を 質 入 し た が 、 その 質 入 が 老母 に 知れる と まことに 具合い が 悪い 、 すぐ 受け出し たい から 、 とにかく 金 を 貸し て くれ 、 という 事 でし た 。 あいにく 自分 の ところ に も 、 お金 が 無かっ た ので 、 例 に 依っ て 、 ヨシ子 に 言いつけ 、 ヨシ子 の 衣類 を 質屋 に 持っ て 行か せ て お金 を 作り 、 堀木 に 貸し て も 、 まだ 少し 余る ので その 残金 で ヨシ子 に 焼酎 を 買わ せ 、 アパート の 屋上 に 行き 、 隅田川 から 時たま 幽か に 吹い て 来る ど ぶ 臭い 風 を 受け て 、 まことに 薄汚い 納涼 の 宴 を 張り まし た 。 
自分 たち は その 時 、 喜劇 名詞 、 悲劇 名詞 の 当 てっ こ を はじめ まし た 。 これ は 、 自分 の 発明 し た 遊戯 で 、 名詞 に は 、 すべて 男性 名詞 、 女性 名詞 、 中性 名詞 など の 別 が ある けれども 、 それ と 同時に 、 喜劇 名詞 、 悲劇 名詞 の 区別 が あっ て 然るべき だ 、 たとえば 、 汽船 と 汽車 は いずれ も 悲劇 名詞 で 、 市電 と バス は 、 いずれ も 喜劇 名詞 、 なぜ そう な の か 、 それ の わから ぬ 者 は 芸術 を 談ずる に 足ら ん 、 喜劇 に 一 個 でも 悲劇 名詞 を さしはさん で いる 劇 作家 は 、 既に それ だけ で 落第 、 悲劇 の 場合 も また 然 り 、 といった よう な わけ な の でし た 。 
「 いい かい ？ 　 煙草 は ？ 」 
と 自分 が 問い ます 。 
「 トラ 。 （ 悲劇 の 略 ） 」 
と 堀木 が 言下 に 答え ます 。 
「 薬 は ？ 」 
「 粉薬 かい ？ 　 丸薬 かい ？ 」 
「 注射 」 
「 トラ 」 
「 そう か な ？ 　 ホルモン 注射 も ある し ねえ 」 
「 いや 、 断然 トラ だ 。 針 が 第 一 、 お前 、 立派 な トラ じゃ ない か 」 
「 よし 、 負け て 置こ う 。 しかし 、 君 、 薬 や 医者 はね 、 あれ で 案外 、 コメ （ 喜劇 の 略 ） な ん だ ぜ 。 死 は ？ 」 
「 コメ 。 牧師 も 和尚 も 然 り じゃ ね 」 
「 大 出来 。 そうして 、 生 は トラ だ なあ 」 
「 ちがう 。 それ も 、 コメ 」 
「 いや 、 それでは 、 何でもかでも 皆 コメ に なっ て しまう 。 で はね 、 もう 一つ お たずね する が 、 漫画 家 は ？ 　 よもや 、 コメ と は 言え ませ ん でしょ う ？ 」 
「 トラ 、 トラ 。 大 悲劇 名詞 ！ 」 
「 なん だ 、 大 トラ は 君 の ほう だ ぜ 」 
こんな 、 下手 な 駄洒落 みたい な 事 に なっ て しまっ て は 、 つまらない の です けど 、 しかし 自分 たち は その 遊戯 を 、 世界 の サロン に も 嘗 つて 存 し なかっ た 頗る 気 の きい た もの だ と 得意 がっ て い た の でし た 。 
また もう 一つ 、 これ に 似 た 遊戯 を 当時 、 自分 は 発明 し て い まし た 。 それ は 、 対義語 の 当 てっ こ でし た 。 黒 の アント （ 対義語 の 略 ） は 、 白 。 けれども 、 白 の アント は 、 赤 。 赤 の アント は 、 黒 。 
「 花 の アント は ？ 」 
と 自分 が 問う と 、 堀木 は 口 を 曲げ て 考え 、 
「 ええ っと 、 花月 という 料理 屋 が あっ た から 、 月 だ 」 
「 いや 、 それ は アント に なっ て い ない 。 むしろ 、 同義語 だ 。 星 と 菫 だって 、 シノニム じゃ ない か 。 アント で ない 」 
「 わかっ た 、 それ はね 、 蜂 だ 」 
「 ハチ ？ 」 
「 牡丹 に 、 … … 蟻 か ？ 」 
「 なあんだ 、 それ は 画題 だ 。 ごまかし ちゃ いけ ない 」 
「 わかっ た ！ 　 花 に むら 雲 、 … … 」 
「 月 に むら 雲 だろ う 」 
「 そう 、 そう 。 花 に 風 。 風 だ 。 花 の アント は 、 風 」 
「 まずい なあ 、 それ は 浪花節 の 文句 じゃ ない か 。 お さ と が 知れる ぜ 」 
「 いや 、 琵琶 だ 」 
「 なお いけ ない 。 花 の アント はね 、 … … およそ この世 で 最も 花 らしく ない もの 、 それ を こそ 挙げる べき だ 」 
「 だから 、 その 、 … … 待て よ 、 なあんだ 、 女 か 」 
「 ついで に 、 女 の シノニム は ？ 」 
「 臓物 」 
「 君 は 、 どうも 、 詩 を 知ら ん ね 。 それ じゃあ 、 臓物 の アント は ？ 」 
「 牛乳 」 
「 これ は 、 ちょっと うまい な 。 その 調子 で もう 一つ 。 恥 。 オント の アント 」 
「 恥知らず さ 。 流行 漫画 家 上司 幾 太 」 
「 堀木 正雄 は ？ 」 
この 辺 から 二 人 だんだん 笑え なく なっ て 、 焼酎 の 酔い 特有 の 、 あの ガラス の 破片 が 頭 に 充満 し て いる よう な 、 陰鬱 な 気分 に なっ て 来 た の でし た 。 
「 生意気 言う な 。 おれ は まだ お前 の よう に 、 繩目 の 恥辱 など 受け た 事 が 無 えん だ 」 
ぎょっと し まし た 。 堀木 は 内心 、 自分 を 、 真人間 あつかい に し て い なかっ た の だ 、 自分 を ただ 、 死にぞこない の 、 恥知らず の 、 阿呆 の ばけ ものの 、 謂わ ば 「 生ける 屍 」 と しか 解し て くれ ず 、 そうして 、 彼 の 快楽 の ため に 、 自分 を 利用 できる ところ だけ は 利用 する 、 それ っきり の 「 交友 」 だっ た の だ 、 と 思っ たら 、 さすが に いい 気持 は し ませ ん でし た が 、 しかし また 、 堀木 が 自分 を その よう に 見 て いる の も 、 もっとも な 話 で 、 自分 は 昔 から 、 人間 の 資格 の 無い みたい な 子供 だっ た の だ 、 やっぱり 堀木 に さえ 軽蔑 せら れ て 至当 な の かも 知れ ない 、 と 考え直し 、 
「 罪 。 罪 の アントニム は 、 何 だろ う 。 これ は 、 むずかしい ぞ 」 
と 何気無 さ そう な 表情 を 装っ て 、 言う の でし た 。 
「 法律 さ 」 
堀木 が 平然と そう 答え まし た ので 、 自分 は 堀木 の 顔 を 見直し まし た 。 近く の ビル の 明滅 する ネオンサイン の 赤い 光 を 受け て 、 堀木 の 顔 は 、 鬼 刑事 の 如く 威厳 あり げ に 見え まし た 。 自分 は 、 つくづく 呆れかえり 、 
「 罪 って の は 、 君 、 そんな もの じゃ ない だろ う 」 
罪 の 対義語 が 、 法律 と は ！ 　 しかし 、 世間 の 人 たち は 、 みんな それ くらい に 簡単 に 考え て 、 澄まし て 暮し て いる の かも 知れ ませ ん 。 刑事 の い ない ところ に こそ 罪 が うごめい て いる 、 と 。 
「 それ じゃあ 、 なん だい 、 神 か ？ 　 お前 に は 、 どこ か ヤソ 坊主 くさい ところ が ある から な 。 いや 味 だ ぜ 」 
「 まあ そんなに 、 軽く 片づける な よ 。 も 少し 、 二 人 で 考え て 見よ う 。 これ は でも 、 面白い テーマ じゃ ない か 。 この テーマ に対する 答 一つ で 、 その ひと の 全部 が わかる よう な 気 が する の だ 」 
「 まさか 。 … … 罪 の アント は 、 善 さ 。 善良 なる 市民 。 つまり 、 おれ みたい な もの さ 」 
「 冗談 は 、 よそ う よ 。 しかし 、 善 は 悪 の アント だ 。 罪 の アント で は ない 」 
「 悪 と 罪 と は 違う の かい ？ 」 
「 違う 、 と 思う 。 善悪 の 概念 は 人間 が 作っ た もの だ 。 人間 が 勝手 に 作っ た 道徳 の 言葉 だ 」 
「 うる せ え なあ 。 それ じゃ 、 やっぱり 、 神 だろ う 。 神 、 神 。 なん でも 、 神 に し て 置け ば 間違い ない 。 腹 が へっ た なあ 」 
「 いま 、 した で ヨシ子 が そら豆 を 煮 て いる 」 
「 あり が てえ 。 好物 だ 」 
両手 を 頭 の うし ろ に 組ん で 、 仰 向 に ごろりと 寝 まし た 。 
「 君 に は 、 罪 という もの が 、 まるで 興味 ない らしい ね 」 
「 そりゃ そう さ 、 お前 の よう に 、 罪人 で は 無い ん だ から 。 おれ は 道楽 は し て も 、 女 を 死な せ たり 、 女 から 金 を 巻き上げ たり なん か は し ねえ よ 」 
死な せ た の で は ない 、 巻き上げ た の で は ない 、 と 心 の 何処 か で 幽か な 、 けれども 必死 の 抗議 の 声 が 起っ て も 、 しかし 、 また 、 いや 自分 が 悪い の だ と すぐ に 思いかえし て しまう この 習癖 。 
自分 に は 、 どうしても 、 正面 切っ て の 議論 が 出来 ませ ん 。 焼酎 の 陰鬱 な 酔い の ため に 刻 一刻 、 気持 が 険しく なっ て 来る の を 懸命 に 抑え て 、 ほとんど 独り ごと の よう に し て 言い まし た 。 
「 しかし 、 牢屋 に いれ られる 事 だけ が 罪 じゃ ない ん だ 。 罪 の アント が わかれ ば 、 罪 の 実体 も つかめる よう な 気 が する ん だ けど 、 … … 神 、 … … 救い 、 … … 愛 、 … … 光 、 … … しかし 、 神 に は サタン という アント が ある し 、 救い の アント は 苦悩 だろ う し 、 愛 に は 憎しみ 、 光 に は 闇 という アント が あり 、 善 に は 悪 、 罪 と 祈り 、 罪 と 悔い 、 罪 と 告白 、 罪 と 、 … … 嗚呼 、 みんな シノニム だ 、 罪 の 対語 は 何 だ 」 
「 ツミ の 対語 は 、 ミツ さ 。 蜜 の 如く 甘し だ 。 腹 が へっ た なあ 。 何 か 食う もの を 持っ て 来い よ 」 
「 君 が 持っ て 来 たら いい じゃ ない か ！ 」 
ほとんど 生れ て はじめ て と 言っ て いい くらい の 、 烈しい 怒り の 声 が 出 まし た 。 
「 ようし 、 それ じゃ 、 した へ 行っ て 、 ヨシ ちゃん と 二 人 で 罪 を 犯し て 来よ う 。 議論 より 実地 検分 。 罪 の アント は 、 蜜豆 、 いや 、 そら豆 か 」 
ほとんど 、 ろれつ の 廻ら ぬ くらい に 酔っ て いる の でし た 。 
「 勝手 に しろ 。 どこ か へ 行っ ちまえ ！ 」 
「 罪 と 空腹 、 空腹 と そら豆 、 いや 、 これ は シノニム か 」 
出鱈目 を 言い ながら 起き 上り ます 。 
罪 と 罰 。 ドストイエフスキイ 。 ちら と それ が 、 頭脳 の 片隅 を かすめ て 通り 、 はっと 思い まし た 。 もしも 、 あの ドスト 氏 が 、 罪 と 罰 を シノニム と 考え ず 、 アントニム として 置き 並べ た もの と し たら ？ 　 罪 と 罰 、 絶対 に 相 通ぜ ざる もの 、 氷炭 相 容れ ざる もの 。 罪 と 罰 を アント として 考え た ドスト の 青み どろ 、 腐っ た 池 、 乱麻 の 奥底 の 、 … … ああ 、 わかり かけ た 、 いや 、 まだ 、 … … など と 頭脳 に 走馬燈 が くるくる 廻っ て い た 時 に 、 
「 おい ！ 　 とんだ 、 そら豆 だ 。 来い ！ 」 
堀木 の 声 も 顔色 も 変っ て い ます 。 堀木 は 、 たった いま ふらふら 起き て し た へ 行っ た 、 か と 思う と また 引返し て 来 た の です 。 
「 なん だ 」 
異様 に 殺気立ち 、 ふたり 、 屋上 から 二 階 へ 降り 、 二 階 から 、 さらに 階下 の 自分 の 部屋 へ 降りる 階段 の 中途 で 堀木 は 立ち止り 、 
「 見ろ ！ 」 
と 小声 で 言っ て 指 差し ます 。 
自分 の 部屋 の 上 の 小 窓 が あい て い て 、 そこ から 部屋 の 中 が 見え ます 。 電気 が つい た まま で 、 二 匹 の 動物 が い まし た 。 
自分 は 、 ぐらぐら 目まい し ながら 、 これ も また 人間 の 姿 だ 、 これ も また 人間 の 姿 だ 、 おどろく 事 は 無い 、 など 劇 しい 呼吸 と共に 胸 の 中 で 呟き 、 ヨシ子 を 助ける 事 も 忘れ 、 階段 に 立ちつくし て い まし た 。 
堀木 は 、 大きい 咳ばらい を し まし た 。 自分 は 、 ひとり 逃げる よう に また 屋上 に 駈け 上り 、 寝ころび 、 雨 を 含ん だ 夏 の 夜空 を 仰ぎ 、 その とき 自分 を 襲っ た 感情 は 、 怒り で も 無く 、 嫌悪 で も 無く 、 また 、 悲しみ で も 無く 、 もの凄まじい 恐怖 でし た 。 それ も 、 墓地 の 幽霊 など に対する 恐怖 で は なく 、 神社 の 杉 木立 で 白衣 の 御 神体 に 逢っ た 時 に 感ずる かも 知れ ない よう な 、 四 の 五 の 言わさ ぬ 古代 の 荒々しい 恐怖 感 でし た 。 自分 の 若白髪 は 、 その 夜 から はじまり 、 いよいよ 、 すべて に 自信 を 失い 、 いよいよ 、 ひと を 底 知れ ず 疑い 、 この世 の 営み に対する 一 さい の 期待 、 よろこび 、 共鳴 など から 永遠 に は なれる よう に なり まし た 。 実に 、 それ は 自分 の 生涯 に 於い て 、 決定的 な 事件 でし た 。 自分 は 、 まっ こう から 眉間 を 割ら れ 、 そう し て それ 以来 その 傷 は 、 どんな 人間 に でも 接近 する 毎 に 痛む の でし た 。 
「 同情 は する が 、 しかし 、 お前 も これ で 、 少し は 思い知っ たろ う 。 もう 、 おれ は 、 二度と ここ へ は 来 ない よ 。 まるで 、 地獄 だ 。 … … でも 、 ヨシ ちゃん は 、 ゆるし て やれ 。 お前 だって 、 どうせ 、 ろくな 奴 じゃ ない ん だ から 。 失敬 する ぜ 」 
気まずい 場所 に 、 永く とどまっ て いる ほど 間 の 抜け た 堀木 で は あり ませ ん でし た 。 
自分 は 起き 上っ て 、 ひとり で 焼酎 を 飲み 、 それから 、 おいおい 声 を 放っ て 泣き まし た 。 いくら で も 、 いくら でも 泣ける の でし た 。 
いつのまにか 、 背後 に 、 ヨシ子 が 、 そら豆 を 山盛り に し た お 皿 を 持っ て ぼんやり 立っ て い まし た 。 
「 なんにも 、 し ない から って 言っ て 、 … … 」 
「 いい 。 何 も 言う な 。 お前 は 、 ひと を 疑う 事 を 知ら なかっ た ん だ 。 お 坐り 。 豆 を 食べよ う 」 
並ん で 坐っ て 豆 を 食べ まし た 。 嗚呼 、 信頼 は 罪 なり や ？ 　 相手 の 男 は 、 自分 に 漫画 を かか せ て は 、 わずか な お金 を もっ たい 振っ て 置い て 行く 三 十 歳 前後 の 無学 な 小男 の 商人 な の でし た 。 
さすが に その 商人 は 、 その後 やっ て は 来 ませ ん でし た が 、 自分 に は 、 どうして だ か 、 その 商人 に対する 憎悪 より も 、 さい しょ に 見つけ た すぐ その 時 に 大きい 咳ばらい も 何 も せ ず 、 そのまま 自分 に 知らせ に また 屋上 に 引返し て 来 た 堀木 に対する 憎しみ と 怒り が 、 眠ら れ ぬ 夜 など に むらむら 起っ て 呻き まし た 。 
ゆるす も 、 ゆるさ ぬ も あり ませ ん 。 ヨシ子 は 信頼 の 天才 な の です 。 ひと を 疑う 事 を 知ら なかっ た の です 。 しかし 、 それ ゆえ の 悲惨 。 
神 に 問う 。 信頼 は 罪 なり や 。 
ヨシ子 が 汚さ れ た という 事 より も 、 ヨシ子 の 信頼 が 汚さ れ た という 事 が 、 自分 にとって その のち 永く 、 生き て おら れ ない ほど の 苦悩 の 種 に なり まし た 。 自分 の よう な 、 いやらしく おどおど し て 、 ひと の 顔 いろ ばかり 伺い 、 人 を 信じる 能力 が 、 ひび割れ て しまっ て いる もの にとって 、 ヨシ子 の 無垢 の 信頼 心 は 、 それ こそ 青葉 の 滝 の よう に すがすがしく 思わ れ て い た の です 。 それ が 一夜 で 、 黄色い 汚水 に 変っ て しまい まし た 。 見よ 、 ヨシ子 は 、 その 夜 から 自分 の 一顰一笑 に さえ 気 を 遣う よう に なり まし た 。 
「 おい 」 
と 呼ぶ と 、 ぴくっとして 、 もう 眼 の やり場 に 困っ て いる 様子 です 。 どんなに 自分 が 笑わせよ う として 、 お 道化 を 言っ て も 、 おろおろ し 、 びく びく し 、 やたら に 自分 に 敬語 を 遣う よう に なり まし た 。 
果して 、 無垢 の 信頼 心 は 、 罪 の 原泉 なり や 。 
自分 は 、 人妻 の 犯さ れ た 物語 の 本 を 、 いろいろ 捜し て 読ん で み まし た 。 けれども 、 ヨシ子 ほど 悲惨 な 犯さ れ 方 を し て いる 女 は 、 ひとり も 無い と 思い まし た 。 どだい 、 これ は 、 てんで 物語 に も 何 も なり ませ ん 。 あの 小男 の 商人 と 、 ヨシ子 と の あいだ に 、 少し でも 恋 に 似 た 感情 でも あっ た なら 、 自分 の 気持 も かえって たすかる かも 知れ ませ ん が 、 ただ 、 夏 の 一夜 、 ヨシ子 が 信頼 し て 、 そうして 、 それ っきり 、 しかも その ため に 自分 の 眉間 は 、 まっ こう から 割ら れ 声 が 嗄れ て 若白髪 が はじまり 、 ヨシ子 は 一生 おろおろ し なけれ ば なら なく なっ た の です 。 たいてい の 物語 は 、 その 妻 の 「 行為 」 を 夫 が 許す か どう か 、 そこ に 重点 を 置い て い た よう でし た が 、 それ は 自分 にとって は 、 そんなに 苦しい 大 問題 で は 無い よう に 思わ れ まし た 。 許す 、 許さ ぬ 、 その よう な 権利 を 留保 し て いる 夫 こそ 幸い なる 哉 、 とても 許す 事 が 出来 ぬ と 思っ た なら 、 何 も そんなに 大騒ぎ せ ず とも 、 さっさと 妻 を 離縁 し て 、 新しい 妻 を 迎え たら どう だろ う 、 それ が 出来 なかっ たら 、 所 謂 「 許し て 」 我慢 する さ 、 いずれ に し て も 夫 の 気持 一つ で 四方八方 が まるく 収 る だろ う に 、 という 気 さえ する の でし た 。 つまり 、 その よう な 事件 は 、 たしかに 夫 にとって 大いなる ショック で あっ て も 、 しかし 、 それ は 「 ショック 」 で あっ て 、 いつ まで も 尽きる こと 無く 打ち返し 打ち寄せる 波 と 違い 、 権利 の ある 夫 の 怒り で もっ て どう に でも 処理 できる トラブル の よう に 自分 に は 思わ れ た の でし た 。 けれども 、 自分 たち の 場合 、 夫 に 何 の 権利 も 無く 、 考える と 何もかも 自分 が わるい よう な 気 が し て 来 て 、 怒る どころか 、 おこ ごと 一つ も 言え ず 、 また 、 その 妻 は 、 その 所有 し て いる 稀 な 美質 に 依っ て 犯さ れ た の です 。 しかも 、 その 美質 は 、 夫 の かね て あこがれ の 、 無垢 の 信頼 心 という たまらなく 可憐 な もの な の でし た 。 
無垢 の 信頼 心 は 、 罪 なり や 。 
唯一 の たのみ の 美質 に さえ 、 疑惑 を 抱き 、 自分 は 、 もはや 何もかも 、 わけ が わから なく なり 、 おもむく ところ は 、 ただ アルコール だけ に なり まし た 。 自分 の 顔 の 表情 は 極度 に いやしく なり 、 朝 から 焼酎 を 飲み 、 歯 が ぼろぼろ に 欠け て 、 漫画 も ほとんど 猥画 に 近い もの を 画く よう に なり まし た 。 いいえ 、 はっきり 言い ます 。 自分 は その 頃 から 、 春画 の コピイ を し て 密売 し まし た 。 焼酎 を 買う お金 が ほしかっ た の です 。 いつも 自分 から 視線 を はずし て おろおろ し て いる ヨシ子 を 見る と 、 こいつ は 全く 警戒 を 知ら ぬ 女 だっ た から 、 あの 商人 と いちど だけ で は 無かっ た の で は なかろ う か 、 また 、 堀木 は ？ 　 いや 、 或いは 自分 の 知ら ない 人 とも ？ 　 と 疑惑 は 疑惑 を 生み 、 さりとて 思い切っ て それ を 問い 正す 勇気 も 無く 、 れい の 不安 と 恐怖 に のたうち 廻る 思い で 、 ただ 焼酎 を 飲ん で 酔っ て は 、 わずか に 卑屈 な 誘導 訊問 みたい な もの を おっかなびっくり 試み 、 内心 おろかしく 一喜一憂 し 、 うわべ は 、 やたら に お 道化 て 、 そうして 、 それから 、 ヨシ子 に いまわしい 地獄 の 愛撫 を 加え 、 泥 の よう に 眠りこける の でし た 。 
その 年 の 暮 、 自分 は 夜 おそく 泥酔 し て 帰宅 し 、 砂糖 水 を 飲み たく 、 ヨシ子 は 眠っ て いる よう でし た から 、 自分 で お勝手 に 行き 砂糖 壺 を 捜し出し 、 ふた を 開け て み たら 砂糖 は 何 も はいっ て なく て 、 黒く 細長い 紙 の 小 箱 が はいっ て い まし た 。 何気なく 手 に 取り 、 その 箱 に はら れ て ある レッテル を 見 て 愕然 と し まし た 。 その レッテル は 、 爪 で 半分 以上 も 掻き はがさ れ て い まし た が 、 洋 字 の 部分 が 残っ て い て 、 それ に はっきり 書か れ て い まし た 。 ＤＩＡＬ 。 
ジアール 。 自分 は その 頃 もっぱら 焼酎 で 、 催眠 剤 を 用い て は い ませ ん でし た が 、 しかし 、 不眠 は 自分 の 持病 の よう な もの でし た から 、 たいてい の 催眠 剤 に は お 馴染み でし た 。 ジアール の この 箱 一つ は 、 たしかに 致死 量 以上 の 筈 でし た 。 まだ 箱 の 封 を 切っ て は い ませ ん でし た が 、 しかし 、 いつか は 、 やる気 で こんな ところ に 、 しかも レッテル を 掻き はがし たり など し て 隠し て い た のに 違い あり ませ ん 。 可哀想 に 、 あの 子 に は レッテル の 洋 字 が 読め ない ので 、 爪 で 半分 掻き はがし て 、 これ で 大丈夫 と 思っ て い た の でしょ う 。 （ お前 に 罪 は 無い ） 
自分 は 、 音 を 立て ない よう に そっと コップ に 水 を 満たし 、 それから 、 ゆっくり 箱 の 封 を 切っ て 、 全部 、 一気に 口 の 中 に ほうり 、 コップ の 水 を 落ちつい て 飲みほし 、 電 燈 を 消し て そのまま 寝 まし た 。 
三 昼夜 、 自分 は 死ん だ よう に なっ て い た そう です 。 医者 は 過失 と 見なし て 、 警察 に とどける の を 猶予 し て くれ た そう です 。 覚醒 しかけ て 、 一 ばん さき に 呟い た うわ ごと は 、 うち へ 帰る 、 という 言葉 だっ た そう です 。 うち と は 、 どこ の 事 を 差し て 言っ た の か 、 当の 自分 に も 、 よく わかり ませ ん が 、 とにかく 、 そう 言っ て 、 ひどく 泣い た そう です 。 
次第に 霧 が はれ て 、 見る と 、 枕元 に ヒラメ が 、 ひどく 不機嫌 な 顔 を し て 坐っ て い まし た 。 
「 この まえ も 、 年 の 暮 の 事 でし て ね 、 お互い もう 、 目 が 廻る くらい いそがしい のに 、 いつも 、 年 の 暮 を ねらっ て 、 こんな 事 を やら れ た ひ に は 、 こっち の 命 が たまらない 」 
ヒラメ の 話 の 聞き手 に なっ て いる の は 、 京橋 の バア の マダム でし た 。 
「 マダム 」 
と 自分 は 呼び まし た 。 
「 うん 、 何 ？ 　 気 が つい た ？ 」 
マダム は 笑い 顔 を 自分 の 顔 の 上 に かぶせる よう に し て 言い まし た 。 
自分 は 、 ぽろぽろ 涙 を 流し 、 
「 ヨシ子 と わかれ させ て 」 
自分 で も 思いがけなかっ た 言葉 が 出 まし た 。 
マダム は 身 を 起し 、 幽か な 溜息 を もらし まし た 。 
それから 自分 は 、 これ も また 実に 思いがけない 滑稽 とも 阿呆 らしい と も 、 形容 に 苦しむ ほど の 失言 を し まし た 。 
「 僕 は 、 女 の い ない ところ に 行く ん だ 」 
うわっ はっ は 、 と まず 、 ヒラメ が 大声 を 挙げ て 笑い 、 マダム も クス クス 笑い 出し 、 自分 も 涙 を 流し ながら 赤面 の 態 に なり 、 苦笑 し まし た 。 
「 うん 、 その ほう が いい 」 
と ヒラメ は 、 いつ まで も だらし 無く 笑い ながら 、 
「 女 の い ない ところ に 行っ た ほう が よい 。 女 が いる と 、 どうも いけ ない 。 女 の い ない ところ と は 、 いい 思いつき です 」 
女 の い ない ところ 。 しかし 、 この 自分 の 阿呆 くさい うわ ごと は 、 のち に 到っ て 、 非常 に 陰惨 に 実現 せら れ まし た 。 
ヨシ子 は 、 何 か 、 自分 が ヨシ子 の 身代り に なっ て 毒 を 飲ん だ と でも 思い込ん で いる らしく 、 以前 より も 尚 いっそう 、 自分 に対して 、 おろおろ し て 、 自分 が 何 を 言っ て も 笑わ ず 、 そうして ろくに 口 も きけ ない よう な 有様 な ので 、 自分 も アパート の 部屋 の 中 に いる の が 、 うっとうしく 、 つい 外 へ 出 て 、 相 変ら ず 安い 酒 を あおる 事 に なる の でし た 。 しかし 、 あの ジアール の 一 件 以来 、 自分 の からだ が めっきり 痩せ 細っ て 、 手足 が だるく 、 漫画 の 仕事 も 怠け がち に なり 、 ヒラメ が あの 時 、 見舞い として 置い て 行っ た お金 （ ヒラメ は それ を 、 渋田 の 志 です 、 と 言っ て いかにも ご 自身 から 出 た お金 の よう に し て 差出し まし た が 、 これ も 故郷 の 兄たち から の お金 の よう でし た 。 自分 も その 頃 に は 、 ヒラメ の 家 から 逃げ出し た あの 時 と ちがっ て 、 ヒラメ の そんな もっ たい 振っ た 芝居 を 、 おぼろ げ ながら 見抜く 事 が 出来る よう に なっ て い まし た ので 、 こちら も ずるく 、 全く 気づか ぬ 振り を し て 、 神妙 に その お金 の お礼 を ヒラメ に 向っ て 申し上げ た の でし た が 、 しかし 、 ヒラメ たち が 、 なぜ 、 そんな ややこしい カラクリ を やらかす の か 、 わかる よう な 、 わから ない よう な 、 どうしても 自分 に は 、 へん な 気 が し て なり ませ ん でし た ） その お金 で 、 思い切っ て ひとり で 南伊豆 の 温泉 に 行っ て み たり など し まし た が 、 とても そんな 悠長 な 温泉 めぐり など 出来る 柄 で は なく 、 ヨシ子 を 思え ば 侘び し さ 限り なく 、 宿 の 部屋 から 山 を 眺める など の 落ちつい た 心境 に は 甚だ 遠く 、 ド テラ に も 着 換え ず 、 お湯 に も はいら ず 、 外 へ 飛び出し て は 薄汚い 茶店 みたい な ところ に 飛び込ん で 、 焼酎 を 、 それ こそ 浴びる ほど 飲ん で 、 からだ 具合い を 一 そう 悪く し て 帰京 し た だけ の 事 でし た 。 
東京 に 大雪 の 降っ た 夜 でし た 。 自分 は 酔っ て 銀座 裏 を 、 ここ は お 国 を 何 百 里 、 ここ は お 国 を 何 百 里 、 と 小声 で 繰り返し 繰り返し 呟く よう に 歌い ながら 、 なおも 降り つもる 雪 を 靴 先 で 蹴 散らし て 歩い て 、 突然 、 吐き まし た 。 それ は 自分 の 最初 の 喀血 でし た 。 雪 の 上 に 、 大きい 日の丸 の 旗 が 出来 まし た 。 自分 は 、 しばらく しゃがん で 、 それから 、 よごれ て い ない 個所 の 雪 を 両手 で 掬い 取っ て 、 顔 を 洗い ながら 泣き まし た 。 
こうこ は 、 どう この 細道 じゃ ？ 
こうこ は 、 どう この 細道 じゃ ？ 
哀れ な 童女 の 歌声 が 、 幻聴 の よう に 、 かすか に 遠く から 聞え ます 。 不幸 。 この世 に は 、 さまざま の 不幸 な 人 が 、 いや 、 不幸 な 人 ばかり 、 と 言っ て も 過言 で は ない でしょ う が 、 しかし 、 その 人 たち の 不幸 は 、 所 謂 世間 に対して 堂々 と 抗議 が 出来 、 また 「 世間 」 も その 人 たち の 抗議 を 容易 に 理解 し 同情 し ます 。 しかし 、 自分 の 不幸 は 、 すべて 自分 の 罪悪 から な ので 、 誰 に も 抗議 の 仕様 が 無い し 、 また 口ごもり ながら 一言 で も 抗議 め いた事 を 言い かける と 、 ヒラメ なら ず とも 世間 の 人 たち 全部 、 よくも まあ そんな 口 が きけ た もの だ と 呆れかえる に 違い ない し 、 自分 は いったい 俗 に いう 「 わがまま も の 」 な の か 、 または その 反対 に 、 気 が 弱 すぎる の か 、 自分 で も わけ が わから ない けれども 、 とにかく 罪悪 の かたまり らしい ので 、 どこ まで も 自ら どんどん 不幸 に なる ばかり で 、 防ぎ 止める 具体 策 など 無い の です 。 
自分 は 立っ て 、 取り敢えず 何 か 適当 な 薬 を と 思い 、 近く の 薬屋 に は いっ て 、 そこ の 奥さん と 顔 を 見合せ 、 瞬間 、 奥さん は 、 フラッシュ を 浴び た みたい に 首 を あげ 眼 を 見 はり 、 棒立ち に なり まし た 。 しかし 、 その 見 はっ た 眼 に は 、 驚愕 の 色 も 嫌悪 の 色 も 無く 、 ほとんど 救い を 求める よう な 、 慕う よう な 色 が あらわれ て いる の でし た 。 ああ 、 この ひと も 、 きっと 不幸 な 人 な の だ 、 不幸 な 人 は 、 ひと の 不幸 に も 敏感 な もの な の だ から 、 と 思っ た 時 、 ふと 、 その 奥さん が 松葉杖 を つい て 危 かしく 立っ て いる の に 気がつき まし た 。 駈け 寄り たい 思い を 抑え て 、 なおも その 奥さん と 顔 を 見合せ て いる うち に 涙 が 出 て 来 まし た 。 する と 、 奥さん の 大きい 眼 から も 、 涙 が ぽろぽろ と あふれ て 出 まし た 。 
それ っきり 、 一言 も 口 を きか ず に 、 自分 は その 薬屋 から 出 て 、 よろめい て アパート に 帰り 、 ヨシ子 に 塩水 を 作ら せ て 飲み 、 黙っ て 寝 て 、 翌 る 日 も 、 風邪 気味 だ と 嘘 を つい て 一 日 一ぱい 寝 て 、 夜 、 自分 の 秘密 の 喀血 が どうにも 不安 で たまら ず 、 起き て 、 あの 薬 屋 に 行き 、 こんど は 笑い ながら 、 奥さん に 、 実に 素直 に 今 迄 の からだ 具合い を 告白 し 、 相談 し まし た 。 
「 お 酒 を お よし に なら なけれ ば 」 
自分 たち は 、 肉 身 の よう でし た 。 
「 アル中 に なっ て いる かも 知れ ない ん です 。 いま でも 飲み たい 」 
「 いけ ませ ん 。 私 の 主人 も 、 テーベ の くせ に 、 菌 を 酒 で 殺す ん だ なんて 言っ て 、 酒びたり に なっ て 、 自分 から 寿命 を ちぢめ まし た 」 
「 不安 で いけ ない ん です 。 こわく て 、 とても 、 だめ な ん です 」 
「 お 薬 を 差し上げ ます 。 お 酒 だけ は 、 お よし なさい 」 
奥さん （ 未亡人 で 、 男の子 が ひとり 、 それ は 千葉 だ か どこ だ か の 医大 に は いっ て 、 間もなく 父 と 同じ 病 いに かかり 、 休学 入院 中 で 、 家 に は 中風 の 舅 が 寝 て い て 、 奥さん 自身 は 五 歳 の 折 、 小児 痲痺 で 片方 の 脚 が 全然 だめ な の でし た ） は 、 松葉杖 を コトコト と 突き ながら 、 自分 の ため に あっち の 棚 、 こっち の 引出し 、 いろいろ と 薬品 を 取 そろえ て くれる の でし た 。 
これ は 、 造血 剤 。 
これ は 、 ヴィタミン の 注射 液 。 注射 器 は 、 これ 。 
これ は 、 カルシウム の 錠剤 。 胃腸 を こわさ ない よう に 、 ジアスターゼ 。 
これ は 、 何 。 これ は 、 何 、 と 五 、 六 種 の 薬品 の 説明 を 愛情 こめ て し て くれ た の です が 、 しかし 、 この 不幸 な 奥さん の 愛情 も また 、 自分 にとって 深 すぎ まし た 。 最後 に 奥さん が 、 これ は 、 どうしても 、 なんと し て も お 酒 を 飲み たく て 、 たまらなく なっ た 時 の お 薬 、 と 言っ て 素早く 紙 に 包ん だ 小 箱 。 
モルヒネ の 注射 液 でし た 。 
酒 より は 、 害 に なら ぬ と 奥さん も 言い 、 自分 も それ を 信じ て 、 また 一つ に は 、 酒 の 酔い も さすが に 不潔 に 感ぜ られ て 来 た 矢先 でも あっ た し 、 久し振り に アルコール という サタン から のがれる 事 の 出来る 喜び も あり 、 何 の 躊躇 も 無く 、 自分 は 自分 の 腕 に 、 その モルヒネ を 注射 し まし た 。 不安 も 、 焦燥 も 、 はにかみ も 、 綺麗 に 除去 せら れ 、 自分 は 甚だ 陽気 な 能弁 家 に なる の でし た 。 そうして 、 その 注射 を する と 自分 は 、 からだ の 衰弱 も 忘れ て 、 漫画 の 仕事 に 精 が 出 て 、 自分 で 画き ながら 噴き出し て しまう ほど 珍妙 な 趣向 が 生れる の でし た 。 
一 日 一 本 の つもり が 、 二 本 に なり 、 四 本 に なっ た 頃 に は 、 自分 は もう それ が 無けれ ば 、 仕事 が 出来 ない よう に なっ て い まし た 。 
「 いけ ませ ん よ 、 中毒 に なっ たら 、 そりゃ もう 、 たいへん です 」 
薬屋 の 奥さん に そう 言わ れる と 、 自分 は もう 可 成り の 中毒 患者 に なっ て しまっ た よう な 気 が し て 来 て 、 （ 自分 は 、 ひと の 暗示 に 実に もろく ひっかかる たち な の です 。 この お金 は 使っ ちゃ いけ ない よ 、 と 言っ て も 、 お前 の 事 だ もの なあ 、 なんて 言わ れる と 、 何だか 使わ ない と 悪い よう な 、 期待 に そむく よう な 、 へん な 錯覚 が 起っ て 、 必ず すぐ に その お金 を 使っ て しまう の でし た ） その 中毒 の 不安 の ため 、 かえって 薬品 を たくさん 求める よう に なっ た の でし た 。 
「 たのむ ！ 　 もう 一 箱 。 勘定 は 月末 に きっと 払い ます から 」 
「 勘定 なんて 、 いつ でも かまい ませ ん けど 、 警察 の ほう が 、 うるさい の で ねえ 」 
ああ 、 いつ でも 自分 の 周囲 に は 、 何やら 、 濁っ て 暗く 、 うさん 臭い 日蔭 者 の 気配 が つきまとう の です 。 
「 そこ を 何とか 、 ごまかし て 、 たのむ よ 、 奥さん 。 キス し て あげよ う 」 
奥さん は 、 顔 を 赤らめ ます 。 
自分 は 、 いよいよ つけ込み 、 
「 薬 が 無い と 仕事 が ちっとも 、 はかどら ない ん だ よ 。 僕 に は 、 あれ は 強精剤 みたい な もの な ん だ 」 
「 それ じゃ 、 いっそ 、 ホルモン 注射 が いい でしょ う 」 
「 ばか に し ちゃ いけ ませ ん 。 お 酒 か 、 そう で なけれ ば 、 あの 薬 か 、 どっち か で 無けれ ば 仕事 が 出来 ない ん だ 」 
「 お 酒 は 、 いけ ませ ん 」 
「 そう でしょ う ？ 　 僕 はね 、 あの 薬 を 使う よう に なっ て から 、 お 酒 は 一滴 も 飲ま なかっ た 。 おかげ で 、 からだ の 調子 が 、 とても いい ん だ 。 僕 だって 、 いつ まで も 、 下手くそ な 漫画 など を かい て いる つもり は 無い 、 これから 、 酒 を やめ て 、 からだ を 直し て 、 勉強 し て 、 きっと 偉い 絵 画き に なっ て 見せる 。 いま が 大事 な ところ な ん だ 。 だから さ 、 ね 、 おねがい 。 キス し て あげよ う か 」 
奥さん は 笑い 出し 、 
「 困る わ ねえ 。 中毒 に なっ て も 知り ませ ん よ 」 
コトコト と 松葉杖 の 音 を さ せ て 、 その 薬品 を 棚 から 取り出し 、 
「 一 箱 は 、 あげ られ ませ ん よ 。 すぐ 使っ て しまう の だ もの 。 半分 ね 」 
「 ケチ だ なあ 、 まあ 、 仕方 が 無い や 」 
家 へ 帰っ て 、 すぐ に 一 本 、 注射 を し ます 。 
「 痛く ない ん です か ？ 」 
ヨシ子 は 、 おどおど 自分 に たずね ます 。 
「 それ あ 痛い さ 。 でも 、 仕事 の 能率 を あげる ため に は 、 いや でも これ を やら なけれ ば いけ ない ん だ 。 僕 は この 頃 、 とても 元気 だろ う ？ 　 さあ 、 仕事 だ 。 仕事 、 仕事 」 
と はしゃぐ の です 。 
深夜 、 薬屋 の 戸 を たたい た 事 も あり まし た 。 寝巻 姿 で 、 コトコト 松葉杖 を つい て 出 て 来 た 奥さん に 、 いきなり 抱きつい て キス し て 、 泣く 真似 を し まし た 。 
奥さん は 、 黙っ て 自分 に 一 箱 、 手渡し まし た 。 
薬品 も また 、 焼酎 同様 、 いや 、 それ 以上 に 、 いまわしく 不潔 な もの だ と 、 つくづく 思い知っ た 時 に は 、 既に 自分 は 完全 な 中毒 患者 に なっ て い まし た 。 真に 、 恥知らず の 極 でし た 。 自分 は その 薬品 を 得 たい ばかり に 、 またも 春画 の コピイ を はじめ 、 そうして 、 あの 薬屋 の 不具 の 奥さん と 文字どおり の 醜 関係 を さえ 結び まし た 。 
死に たい 、 いっそ 、 死に たい 、 もう 取返し が つか ない ん だ 、 どんな 事 を し て も 、 何 を し て も 、 駄目 に なる だけ な ん だ 、 恥 の 上塗り を する だけ な ん だ 、 自転車 で 青葉 の 滝 など 、 自分 に は 望む べく も 無い ん だ 、 ただ けがらわしい 罪 に あさましい 罪 が 重なり 、 苦悩 が 増大 し 強烈 に なる だけ な ん だ 、 死に たい 、 死な なけれ ば なら ぬ 、 生き て いる の が 罪 の 種 な の だ 、 など と 思いつめ て も 、 やっぱり 、 アパート と 薬屋 の 間 を 半 狂乱 の 姿 で 往復 し て いる ばかり な の でし た 。 
いくら 仕事 を し て も 、 薬 の 使用 量 も したがって ふえ て いる ので 、 薬代 の 借り が おそろしい ほど の 額 に のぼり 、 奥さん は 、 自分 の 顔 を 見る と 涙 を 浮べ 、 自分 も 涙 を 流し まし た 。 
地獄 。 
この 地獄 から のがれる ため の 最後 の 手段 、 これ が 失敗 し たら 、 あと は もう 首 を くくる ばかり だ 、 という 神 の 存在 を 賭ける ほど の 決意 を以て 、 自分 は 、 故郷 の 父 あて に 長い 手紙 を 書い て 、 自分 の 実情 一 さい を （ 女 の 事 は 、 さすが に 書け ませ ん でし た が ） 告白 する 事 に し まし た 。 
しかし 、 結果 は 一 そう 悪く 、 待て ど 暮せ ど 何 の 返事 も 無く 、 自分 は その 焦燥 と 不安 の ため に 、 かえって 薬 の 量 を ふやし て しまい まし た 。 
今夜 、 十 本 、 一気に 注射 し 、 そうして 大川 に 飛び込も う と 、 ひそか に 覚悟 を 極め た その 日 の 午後 、 ヒラメ が 、 悪魔 の 勘 で 嗅ぎつけ た みたい に 、 堀木 を 連れ て あらわれ まし た 。 
「 お前 は 、 喀血 し た ん だ ってな 」 
堀木 は 、 自分 の 前 に あぐら を かい て そう 言い 、 いま まで 見 た 事 も 無い くらい に 優しく 微笑み まし た 。 その 優しい 微笑 が 、 ありがたく て 、 うれしく て 、 自分 は つい 顔 を そむけ て 涙 を 流し まし た 。 そう し て 彼 の その 優しい 微笑 一つ で 、 自分 は 完全 に 打ち破ら れ 、 葬り 去ら れ て しまっ た の です 。 
自分 は 自動車 に 乗せ られ まし た 。 とにかく 入院 し なけれ ば なら ぬ 、 あと は 自分 たち に まかせ なさい 、 と ヒラメ も 、 しんみり し た 口調 で 、 （ それ は 慈悲 深い と でも 形容 し たい ほど 、 もの静か な 口調 でし た ） 自分 に すすめ 、 自分 は 意志 も 判断 も 何 も 無い 者 の 如く 、 ただ メソメソ 泣き ながら 唯々 諾々 と 二 人 の 言いつけ に 従う の でし た 。 ヨシ子 も いれ て 四 人 、 自分 たち は 、 ずいぶん 永い こと 自動車 に ゆら れ 、 あたり が 薄暗く なっ た 頃 、 森 の 中 の 大きい 病院 の 、 玄関 に 到着 し まし た 。 
サナトリアム と ばかり 思っ て い まし た 。 
自分 は 若い 医師 の いや に 物やわらか な 、 鄭重 な 診察 を 受け 、 それから 医師 は 、 
「 まあ 、 しばらく ここ で 静養 する ん です ね 」 
と 、 まるで 、 はにかむ よう に 微笑 し て 言い 、 ヒラメ と 堀木 と ヨシ子 は 、 自分 ひとり を 置い て 帰る こと に なり まし た が 、 ヨシ子 は 着 換 の 衣類 を いれ て ある 風呂敷 包 を 自分 に 手渡し 、 それ から 黙っ て 帯 の 間 から 注射 器 と 使い 残り の あの 薬品 を 差し出し まし た 。 やはり 、 強精剤 だ と ばかり 思っ て い た の でしょ う か 。 
「 いや 、 もう 要ら ない 」 
実に 、 珍 らしい 事 でし た 。 すすめ られ て 、 それ を 拒否 し た の は 、 自分 の それ まで の 生涯 に 於い て 、 その 時 ただ 一 度 、 と いっ て も 過言 で ない くらい な の です 。 自分 の 不幸 は 、 拒否 の 能力 の 無い 者 の 不幸 でし た 。 すすめ られ て 拒否 する と 、 相手 の 心 に も 自分 の 心 に も 、 永遠 に 修繕 し 得 ない 白々しい ひび割れ が 出来る よう な 恐怖 に おびやかさ れ て いる の でし た 。 けれども 、 自分 は その 時 、 あれ ほど 半 狂乱 に なっ て 求め て い た モルヒネ を 、 実に 自然 に 拒否 し まし た 。 ヨシ子 の 謂わ ば 「 神 の 如き 無 智 」 に 撃た れ た の でしょ う か 。 自分 は 、 あの 瞬間 、 すでに 中毒 で なく なっ て い た の で は ない でしょ う か 。 
けれども 、 自分 は それ から すぐ に 、 あの はにかむ よう な 微笑 を する 若い 医師 に 案内 せら れ 、 或 る 病棟 に いれ られ て 、 ガ チャン と 鍵 を おろさ れ まし た 。 脳 病院 でし た 。 
女 の い ない ところ へ 行く という 、 あの ジアール を 飲ん だ 時 の 自分 の 愚か な うわ ごと が 、 まことに 奇妙 に 実現 せら れ た わけ でし た 。 その 病棟 に は 、 男 の 狂人 ばかり で 、 看護 人 も 男 でし た し 、 女 は ひとり も い ませ ん でし た 。 
いま は もう 自分 は 、 罪人 どころ で は なく 、 狂人 でし た 。 いいえ 、 断じて 自分 は 狂っ て など い なかっ た の です 。 一 瞬間 と いえ ども 、 狂っ た 事 は 無い ん です 。 けれども 、 ああ 、 狂人 は 、 たいてい 自分 の 事 を そう 言う もの だ そう です 。 つまり 、 この 病院 に いれ られ た 者 は 気違い 、 いれ られ なかっ た 者 は 、 ノーマル という 事 に なる よう です 。 
神 に 問う 。 無抵抗 は 罪 なり や ？ 
堀木 の あの 不思議 な 美しい 微笑 に 自分 は 泣き 、 判断 も 抵抗 も 忘れ て 自動車 に 乗り 、 そう し て ここ に 連れ て 来ら れ て 、 狂人 という 事 に なり まし た 。 いま に 、 ここ から 出 て も 、 自分 は やっぱり 狂人 、 いや 、 癈人 という 刻印 を 額 に 打た れる 事 でしょ う 。 
人間 、 失格 。 
もはや 、 自分 は 、 完全 に 、 人間 で 無くなり まし た 。 
ここ へ 来 た の は 初夏 の 頃 で 、 鉄 の 格子 の 窓 から 病院 の 庭 の 小さい 池 に 紅い 睡蓮 の 花 が 咲い て いる の が 見え まし た が 、 それ から 三 つき 経ち 、 庭 に コスモス が 咲き はじめ 、 思いがけなく 故郷 の 長兄 が 、 ヒラメ を 連れ て 自分 を 引き取り に やって来 て 、 父 が 先月 末 に 胃潰瘍 で なく なっ た こと 、 自分 たち は もう お前 の 過去 は 問わ ぬ 、 生活 の 心配 も かけ ない つもり 、 何 も し なく て いい 、 その 代り 、 いろいろ 未練 も ある だろ う が すぐ に 東京 から 離れ て 、 田舎 で 療養 生活 を はじめ て くれ 、 お前 が 東京 で しでかし た 事 の 後 仕 末 は 、 だいたい 渋田 が やっ て くれ た 筈 だ から 、 それ は 気 に し ない で いい 、 と れい の 生真面目 な 緊張 し た よう な 口調 で 言う の でし た 。 
故郷 の 山河 が 眼前 に 見える よう な 気 が し て 来 て 、 自分 は 幽か に うなずき まし た 。 
まさに 癈人 。 
父 が 死ん だ 事 を 知っ て から 、 自分 は いよいよ 腑 抜け た よう に なり まし た 。 父 が 、 もう い ない 、 自分 の 胸中 から 一刻 も 離れ なかっ た あの 懐しく おそろしい 存在 が 、 もう い ない 、 自分 の 苦悩 の 壺 が からっぽ に なっ た よう な 気 が し まし た 。 自分 の 苦悩 の 壺 が やけに 重かっ た の も 、 あの 父 の せい だっ た の で は なかろ う か と さえ 思わ れ まし た 。 まるで 、 張合い が 抜け まし た 。 苦悩 する 能力 を さえ 失い まし た 。 
長兄 は 自分 に対する 約束 を 正確 に 実行 し て くれ まし た 。 自分 の 生れ て 育っ た 町 から 汽車 で 四 、 五 時間 、 南下 し た ところ に 、 東北 に は 珍 らしい ほど 暖かい 海辺 の 温泉 地 が あっ て 、 その 村 はずれ の 、 間 数 は 五つ も ある の です が 、 かなり 古い 家 らしく 壁 は 剥げ 落ち 、 柱 は 虫 に 食わ れ 、 ほとんど 修理 の 仕様 も 無い ほど の 茅屋 を 買い とっ て 自分 に 与え 、 六 十 に 近い ひどい 赤毛 の 醜い 女中 を ひとり 附け て くれ まし た 。 
それから 三 年 と 少し 経ち 、 自分 は その間 に その テツ という 老 女中 に 数 度 へん な 犯さ れ 方 を し て 、 時たま 夫婦 喧嘩 みたい な 事 を はじめ 、 胸 の 病気 の ほう は 一進一退 、 痩せ たり ふとっ たり 、 血痰 が 出 たり 、 きのう 、 テツ に カルモチン を 買っ て おい で 、 と 言っ て 、 村 の 薬屋 に お 使い に やっ たら 、 いつも の 箱 と 違う 形 の 箱 の カルモチン を 買っ て 来 て 、 べつに 自分 も 気 に とめ ず 、 寝る 前 に 十 錠 の ん で も 一向に 眠く なら ない ので 、 おかしい な と 思っ て いる うち に 、 おなか の 具合 が へん に なり 急い で 便所 へ 行っ たら 猛烈 な 下痢 で 、 しかも 、 それから 引続き 三 度 も 便所 に かよっ た の でし た 。 不審 に 堪え ず 、 薬 の 箱 を よく 見る と 、 それ は ヘノモチン という 下剤 でし た 。 
自分 は 仰向け に 寝 て 、 おなか に 湯たんぽ を 載せ ながら 、 テツ に こ ごと を 言っ て やろ う と 思い まし た 。 
「 これ は 、 お前 、 カルモチン じゃ ない 。 ヘノモチン 、 という 」 
と 言い かけ て 、 うふふ ふと 笑っ て しまい まし た 。 「 癈人 」 は 、 どうやら これ は 、 喜劇 名詞 の よう です 。 眠ろ う として 下剤 を 飲み 、 しかも 、 その 下剤 の 名前 は 、 ヘノモチン 。 
いま は 自分 に は 、 幸福 も 不幸 も あり ませ ん 。 
ただ 、 一 さい は 過ぎ て 行き ます 。 
自分 が いま まで 阿鼻叫喚 で 生き て 来 た 所 謂 「 人間 」 の 世界 に 於い て 、 たった 一つ 、 真理 らしく 思わ れ た の は 、 それだけ でし た 。 
ただ 、 一 さい は 過ぎ て 行き ます 。 
自分 は ことし 、 二 十 七 に なり ます 。 白髪 が めっきり ふえ た ので 、 たいてい の 人 から 、 四 十 以上 に 見 られ ます 。 
あとがき 
この 手記 を 書き 綴っ た 狂人 を 、 私 は 、 直接 に は 知ら ない 。 けれども 、 この 手記 に 出 て 来る 京橋 の スタンド・バア の マダム とも おぼしき 人物 を 、 私 は ちょっと 知っ て いる の で ある 。 小柄 で 、 顔色 の よく ない 、 眼 が 細く 吊り 上っ て い て 、 鼻 の 高い 、 美人 と いう より は 、 美 青年 といった ほう が いい くらい の 固い 感じ の ひと で あっ た 。 この 手記 に は 、 どうやら 、 昭和 五 、 六 、 七 年 、 あの 頃 の 東京 の 風景 が おもに 写さ れ て いる よう に 思わ れる が 、 私 が 、 その 京橋 の スタンド・バア に 、 友人 に 連れ られ て 二 、 三 度 、 立ち寄り 、 ハイボール など 飲ん だ の は 、 れい の 日本 の 「 軍部 」 が そろそろ 露骨 に あばれ はじめ た 昭和 十 年 前後 の 事 で あっ た から 、 この 手記 を 書い た 男 に は 、 おめにかかる 事 が 出来 なかっ た わけ で ある 。 
然るに 、 ことし の 二月 、 私 は 千葉 県 船橋 市 に 疎開 し て いる 或 る 友人 を たずね た 。 その 友人 は 、 私 の 大学 時代 の 謂わ ば 学友 で 、 いま は 某 女子大 の 講師 を し て いる の で ある が 、 実は 私 は この 友人 に 私 の 身内 の 者 の 縁談 を 依頼 し て い た ので 、 その 用事 も あり 、 かたがた 何 か 新鮮 な 海産物 で も 仕入れ て 私 の 家 の 者 たち に 食わ せ て やろ う と 思い 、 リュックサック を 背負っ て 船橋 市 へ 出かけ て 行っ た の で ある 。 
船橋 市 は 、 泥海 に 臨ん だ か なり 大きい まち で あっ た 。 新 住民 たる その 友人 の 家 は 、 その 土地 の 人 に 所 番地 を 告げ て たずね て も 、 なかなか わから ない の で ある 。 寒い 上 に 、 リュックサック を 背負っ た 肩 が 痛く なり 、 私 は レコード の 提琴 の 音 に ひか れ て 、 或 る 喫茶店 の ドア を 押し た 。 
そこ の マダム に 見覚え が あり 、 たずね て み たら 、 まさに 、 十 年 前 の あの 京橋 の 小さい バア の マダム で あっ た 。 マダム も 、 私 を すぐ に 思い出し て くれ た 様子 で 、 互いに 大袈裟 に 驚き 、 笑い 、 それから こんな 時 の お きまり の 、 れい の 、 空襲 で 焼け出さ れ た お互い の 経験 を 問わ れ も せ ぬ のに 、 いかにも 自慢 らしく 語り合い 、 
「 あなた は 、 しかし 、 かわら ない 」 
「 いいえ 、 もう お婆さん 。 から だ が 、 がたぴし です 。 あなた こそ 、 お 若い わ 」 
「 とんでも ない 、 子供 が もう 三 人 も ある ん だ よ 。 きょう は そいつ ら の ため に 買い出し 」 
など と 、 これ も また 久し振り で 逢っ た 者 同志 の お きまり の 挨拶 を 交し 、 それから 、 二 人 に 共通 の 知人 の その後 の 消息 を たずね 合っ たり し て 、 その うち に 、 ふと マダム は 口調 を 改め 、 あなた は 葉 ちゃん を 知っ て い た かしら 、 と 言う 。 それ は 知ら ない 、 と 答える と 、 マダム は 、 奥 へ 行っ て 、 三 冊 の ノートブック と 、 三葉 の 写真 を 持っ て 来 て 私 に 手渡し 、 
「 何 か 、 小説 の 材料 に なる かも 知れ ませ ん わ 」 
と 言っ た 。 
私 は 、 ひと から 押しつけ られ た 材料 で もの を 書け ない たち な ので 、 すぐ に その 場 で かえそ う か と 思っ た が 、 （ 三 葉 の 写真 、 その 奇怪 さ に 就い て は 、 はし が き に も 書い て 置い た ） その 写真 に 心 を ひか れ 、 とにかく ノート を あずかる 事 に し て 、 帰り に は また ここ へ 立ち寄り ます が 、 何 町 何 番地 の 何 さん 、 女子大 の 先生 を し て いる ひと の 家 を ご存じ ない か 、 と 尋ねる と 、 やはり 新 住民 同志 、 知っ て い た 。 時たま 、 この 喫茶店 に も お 見え に なる と いう 。 すぐ 近所 で あっ た 。 
その 夜 、 友人 と わずか なお 酒 を 汲み 交し 、 泊め て もらう 事 に し て 、 私 は 朝 まで 一睡 も せ ず に 、 れい の ノート に 読みふけっ た 。 
その 手記 に 書か れ て ある の は 、 昔 の 話 で は あっ た が 、 しかし 、 現代 の 人 たち が 読ん で も 、 かなり の 興味 を 持つ に 違い ない 。 下手 に 私 の 筆 を 加える より は 、 これ は この まま 、 どこ か の 雑誌 社 に たのん で 発表 し て もらっ た ほう が 、 なお 、 有意義 な 事 の よう に 思わ れ た 。 
子供 たち へ の 土産 の 海産物 は 、 干物 だけ 。 私 は 、 リュックサック を 背負っ て 友人 の 許 を 辞し 、 れい の 喫茶店 に 立ち寄り 、 
「 きのう は 、 どうも 。 ところで 、 … … 」 
と すぐ に 切り出し 、 
「 この ノート は 、 しばらく 貸し て い た だけ ませ ん か 」 
「 ええ 、 どうぞ 」 
「 この ひと は 、 まだ 生き て いる の です か ？ 」 
「 さあ 、 それ が 、 さっぱり わから ない ん です 。 十 年 ほど 前 に 、 京橋 の お 店 あて に 、 その ノート と 写真 の 小包 が 送ら れ て 来 て 、 差し出し 人 は 葉 ちゃん に きまっ て いる の です が 、 その 小包 に は 、 葉 ちゃん の 住所 も 、 名前 さえ も 書い て い なかっ た ん です 。 空襲 の 時 、 ほか の もの に まぎれ て 、 これ も 不思議 に たすかっ て 、 私 は こないだ はじめて 、 全部 読ん で み て 、 … … 」 
「 泣き まし た か ？ 」 
「 いいえ 、 泣く と いう より 、 … … だめ ね 、 人間 も 、 ああなっ て は 、 もう 駄目 ね 」 
「 それ から 十 年 、 と する と 、 もう 亡くなっ て いる かも 知れ ない ね 。 これ は 、 あなた へ の お礼 の つもり で 送っ て よこし た の でしょ う 。 多少 、 誇張 し て 書い て いる よう な ところ も ある けど 、 しかし 、 あなた も 、 相当 ひどい 被害 を こうむっ た よう です ね 。 もし 、 これ が 全部 事実 だっ たら 、 そう し て 僕 が この ひと の 友人 だっ たら 、 やっぱり 脳 病院 に 連れ て 行き たく なっ た かも 知れ ない 」 
「 あの ひと の お父さん が 悪い の です よ 」 
何気な さ そう に 、 そう 言っ た 。 
「 私 たち の 知っ て いる 葉 ちゃん は 、 とても 素直 で 、 よく 気 が きい て 、 あれ で お 酒 さえ 飲ま なけれ ば 、 いいえ 、 飲ん で も 、 … … 神様 みたい な いい 子 でし た 」 
