column 2026/09/18
コラム

『論語』をじっくり読んでみよう【孔子の真の姿に迫る!?】(「学について」小島 毅先生の講義より)

東大生ライターが、公開中の講義の見どころを紹介するコラムです。皆さんは『論語』を音読したことはありますか? 誰もが知る一節であっても、解釈は一つではありません。小島毅先生の講義より、たった六文字の言葉から浮かび上がる二つの孔子像を紹介します。

孔子の言葉をまとめたものとされている『論語』。今日はこの『論語』について、中国思想史を専門とする小島毅(こじまつよし)先生と一緒に学んでいきましょう!

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2016 小島 毅

儒教について

孔子が弟子たちに「仁」や「礼」の大切さを説いたことが儒教の始まりとされています。
儒教を、大きく二つに分けて見てみましょう。

一つは漢学(清朝考証学を含む)です。儒教の経典を正しく解釈することを目指し、「礼」そのものに意味を見出します。何晏(かあん)の『論語集解(しっかい)』が代表的な注釈書(どのように読むか解説を記したもの)です。

もう一つは宋学(朱子学・陽明学)です。儒学を発展させ、「理」という概念を重視して「礼」に基づく社会秩序をうち立てようとします。朱熹(しゅき)の『論語集注(しっちゅう)』が代表的な注釈書です。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2016 小島 毅

論語の注釈書は千種類以上あると考えられていますが、大半は散逸してしまい、現在残っているのはその一部です。およそ二千年の間に中国で、そして日本や韓国でも多くの注釈書が書かれてきました。

どうして一つのテクストを数多くの研究者が解釈・翻訳し続けているのでしょうか?

論語を読んでみよう!

まずは声に出して音読してみましょう。

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2016 小島 毅

中国語と書き下し文の二つが並べてあります。日本語で「論語を読む」という場合、かなや返り点をつける「訓読」が必要になるのです。

訓読は、①漢字を音としてどう読むか②意味をどう読むかという二つがセットになっています。つまり、訓読をするためには本文を解釈することになるのです。

時は「とき」か?

朱熹は、一文目を「既学而又時時習之」と解釈しました。この「時時」は現代日本語の「ときどき」という意味とは少し違います。ここでは「常に」「いつもいつも」という意味で言っているのです。

朱熹の解釈に合わせて、「とき」ではなく「つね」と訓読する研究者もいれば、「ここ」と訓読して「そのあとで」というふうに意味を取る研究者もいます。このように、訓読の多様性は解釈の多様性を意味します。だからこそ現代語訳もたくさんあり、それぞれ解釈が少しずつ異なっているのです。

不慍をどう読む?

何晏(かあん)も朱熹(しゅき)も、「慍」という字を「怒る」と解釈します。これに従って訓読すれば「不慍」は「いからず」もしくは「いきどおらず」となります。ただ、この字には「怨む」という意味もあるため、「うらみず」と訓読する研究者もいるのです。ここでも読み方が変わると意味合いも少し変わることが分かります。

漢学:皇侃(おうがん)『論語義疏(ぎそ)』の解釈

さらに、『論語義疏』という6世紀ごろの注釈書は、人として学問が深まっていく過程として読みます。つまり、

子供のとき→勉強がやや進んで一緒に勉強する友達ができる→勉強が完成して先生や君主となることができる

というふうに、具体的な成長の描写として読むのです。

宋学:朱熹 『論語集注』 の解釈

朱熹は、ものを考えるときの中核に「性善説」を置き、この章もその立場から解釈します。すなわち、「学」を「効(ならう)」という意味でとり、後から勉強を始めた人が先生や親を真似することによって、自分がもともともっている「善なる性」を明らかにし、人間本来のありように立ち返るのだと解釈するのです。「君子ならずや」は「人徳を完成させた人は他者からの評価を気に病むことはない」と読みます。

学びの段階として解釈した皇侃とは異なり、人間の道徳について読み込んでいることがわかります。

では、いったいどの解釈が正しいのでしょうか?

小島先生は、「どれが正しいとは言えない」と言います。それぞれが学問的な立場や研究成果に基づいて、妥当な読み方を提示しています。どのように経典を解釈するか議論が積み重ねられていくことが、「古典を読む」ということの重層性だと言えます。

「吾與女弗如也」をどう読むか?

また音読してみましょう!

UTokyo Online Education 学術俯瞰講義 2016 小島 毅

あるとき孔子が、優秀な弟子の一人である子貢に質問しました。「あなたと顔回、どっちが優秀だと思う?」
子貢「自分はとても顔回には及びません。彼は一を聞くと十を知る才能があり、私は一を聞いても二しかわかりません。」
すると孔子は、「如(し)かざるなり。吾與女弗如也。」

・・・文末の6文字はどのように読んだらいいのでしょうか?

漢学:何晏『論語集解』

何晏は、「吾與女弗如也」を「吾女(なんぢ)と與(とも)に如かざるなり」すなわち「君だけでなく私も顔回に及ばないよ」として、子貢は確かに顔回に及ばないけれど、自分も顔回に及ばないと言うことで子貢を慰めようとする、と読みます。

しかし、ここで問題が生じます。顔回は孔子の最も優秀な弟子でしたが、師である孔子よりも優れていてもいいのでしょうか?そこで、異なった読み方を試みた人たちがいました。

漢学:皇侃『論語義疏』

皇侃はこのように考えました。孔子の弟子たちで特に優れているとされた10人の中で、顔回は徳の行い、子貢は弁論術のトップとされていました。そこで孔子は、子貢が2人の差異をどのように認識しているかを確認する質問をしたのです。そして子貢の返答に対して「吾汝に如かざるを與(ゆる)すなり」すなわち「君が顔回に及ばないという判断に賛成するよ」と述べたと読みます。このように読むと、顔回が孔子よりも優れているという問題が生じなくて済むのです。

宋学:朱熹『論語集注』

朱熹も皇侃と似た解釈をします。孔子が「重ねて之を許す」つまり「さらにそれを許した」とします。「與」の字を「許す」の意味でとっていることがわかります。ただし、朱熹が根拠とした注釈書は失われているため、皇侃の説が影響したのかは不明だと言います。

あなたはどちらに與(くみ)するか?

さて、二つの孔子の姿が見えてきました。
子貢に向かって、「君の言う通り顔回は優秀な学生だ。君だけではなく、私も顔回には及ばないのだ」と言う腰の低い孔子。
一方で、「君は顔回に及ばないよ。私も、君が顔回には及ばないという意見に同意するよ」と言うちょっと偉そうな孔子。

みなさんは、どちらが孔子の真の姿だと思いますか?

執筆者
下崎 日菜乃(東京大学学生サポーター)

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