コラム 2026/11/06
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文明開化を伝えた「戸長」という人々(「戸長というメディア:文明開化の伝え方」鈴木 淳先生)

東大生が独自の視点で講義を紹介するコラムです。皆さんは「戸長」という言葉を聞いたことがありますか? 戸長とは、明治初期に各町村で情報伝達を担った役職です。本コラムでは、明治政府の新制度などを人々に伝えるため奔走した「戸長」について紹介します。

明治初期、日本全国に文明開化を伝える重要な役割を果たした人たちを紹介します! 明治4年から明治22年まで政府と各地域の間を繋いだ「戸長(こちょう)」という役職の人たちです。

講師は日本近現代史を専門とする鈴木淳先生です。

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座「知の冒険」Copyright 2015, 鈴木 淳

明治政府と文明開化

文明開化とは、福沢諭吉が『西洋事情外編』という西洋文明を紹介する文章の中で「civilization」の訳語として使った言葉です。王政復古の大号令から明治維新を経て、急速に近代化した世の中のあり方を示しています。

散切り頭や洋服、馬車やランプなどが生活に取り入れられただけでなく、社会全体に西洋の新しい考え方が導入された時代でした。

明治新政府では、戸籍法、廃藩置県、学校制度、徴兵令など様々な改革が進められました。新しい国の決まりが作られたときは、それを国民に伝える必要があります。現代では、国が発行する「官報」や、マスコミを通じた伝達の仕組みがあります。

明治政府にも「太政官日誌」という政府の機関紙があり、新政府の政令などを国民に伝えていました。ただ、発行部数は6600部ほどであり、当時の日本人がおよそ3300万人、全国に8万ほど町村があったことを考えると、実際に読んでいたのは都市の氏族や各藩の幹部、県の行政を行なう人など非常に限られていたと考えられます。また、新聞の発行部数も非常に少なく、情報は十分に行き渡っていなかったと考えられます。

そこで、実際に新しい制度や考え方を日本全国の人々に伝えていたのが、「戸長」という人たちだったのです。

戸長(こちょう)について

明治4年の戸籍法は、日本全体を「地域」という単位で考えました。それまでは、子供が産まれると武士なら「藩」に、農民なら地元のお寺に届け出て、被差別部落の人々は彼ら自身で把握していました。「身分」に応じて人が把握されていたのです。戸籍法では、住んでいる場所に応じて国が人々の数を把握して、その生活を管理することにしたのです。

戸長の役割を担当した人の多くは、田舎では大庄屋(村の役人)、都市では旧武士の士族の人たちでした。もともとその土地で力を持っていた人が、住人たちを管理する役職を正式に与えられたということもできます。

戸長の仕事

戸長は、国からの命令やお知らせが書かれた「ご布達帳」を受け取り、そこに何が書かれているかを人々に伝えます。また、村から国に出す死亡届などの届出の内容を確認するという役割もありました。中央政府と地方の末端の人々とのやり取りを媒介する役割を担っていたのです。字が読めない人たちにも伝わるように、自分の解釈を入れながら「分かりやすく伝える」ということをしていました。

それまでも名主(村の村長)などが同様の役割を果たしていました。戸長という制度ができて変わったのは、その仕事量です。1853年にペリーが日本に来航する前は、国からのご布達は年に17件ほどでした。幕末になると年に30件ほどに増加、明治元年は年60件ほど。さらに明治5年には新しい制度がたくさんできたことにより153件、翌年には375件にもなったと言います。

戸長は、お知らせが来たらその内容を書き写さないといけません。毎日舞い込んでくるお知らせを一言一句書き写すのはとても大変な作業です。次第に仕事は追いつかなくなり、サボる人も出てきます。すると、「2枚書き写して1枚は戸長の家の前に張るべし」という制度ができます。検査をする人がやってきて、戸長がきちんと務めを果たしているか確認するのです。

そんな戸長たちの仕事を楽にするために(そしてお金儲けをするために)、お知らせをまとめて印刷するという県も出てきました。ちょうどこの頃、日本で活版印刷の技術が実用化されて、戸長たちがお金を出し合って県の印刷所を作ることもあったのです。

山形県の例

山形では、廃藩置県で米沢藩がなくなり、山形県が置かれました。関義臣(せきよしおみ)という福井藩出身の人物が明治6年に県知事(参事)を務め、改革を進めました。こちらの資料では、彼が当時の山形の様子を次のように記述しています。

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座「知の冒険」Copyright 2015, 鈴木 淳

「質素倹約で素朴な暮らしはいいかもしれないが、困窮のために江戸時代までそのように暮らしてきたのである。山の中の僻地なので世の中や中央の状況がわかっていないが、自分が地方に赴任してきたからには、新しい基準で彼らを見ないといけない」と決意を露わにしています。

そして、「文明開化の諸政策については今後変わっていくこともあるので各区の区長、戸長は、情勢をよく判断して、人々にもれなく告示するように」と結んでいます。文明開化の雰囲気とは遠く離れた場所で生活する人々に対して、その実情を伝える役割として戸長が期待されていることがよくわかります。

さらに、関義臣が戸長たちに向けて書いた文書では、「五箇条の御誓文」や「権利」、「徴兵令」や「地権」などについて言及しています。

また、何か事件が起こった時にも戸長が集められます。そして「色々な噂に惑わされないように」などといったことを人々に伝達します。現在はマスコミが担うような役割を担っていたのです。

戸長の役割の変化

明治7年ごろになると、新しい社会の仕組みが浸透し始めたことで、戸長の仕事が縮小されていきます。そして、「元戸長」の人たちが生まれていきます。

東京大学 UTokyo OCW 朝日講座「知の冒険」Copyright 2015, 鈴木 淳

「元戸長」の人たちは、最新の社会の仕組みを理解するために、当時大流行していた福沢諭吉の『学問のすすめ』や『西洋事情』といった文章を勉強して、近代的な思想を取り入れた人物となっていたのです。

そして彼らは府県会議員や民権家、さらに明治23年の国会開設以降は議員となりました。政府を批判しつつ国家を支える存在になっていったのです。

明治維新を経て誕生した「戸長」は、負担が大きいと同時に自主性が高い役職でした。その中で戸長たちは「自分たちこそが開化の担い手である」という自覚を強く持ったのです。(そのような自主意識と政府との対立が、西郷隆盛を中心とする士族と政府が戦った西南戦争に繋がっていきます。)

執筆者
下崎 日菜乃(東京大学学生サポーター)
東京大学文学部。面白い授業をわかりやすく伝える記事を書くことが目標です!

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